第13話 記録の上では
書状は、宰相府から届いた。
『先の断罪記録の訂正について』
レティシアは、その表題を二度読んだ。
二度読んで、まだ何も感じなかった。
*
「三つあります」
ロイドが、書状を机の上に開いた。
「一つ、断罪の記録を訂正する。二つ、王妃陛下の功績を再評価する。三つ、その両方を、公に発表する」
「……はい」
「あのとき、王城が公式に約束したものです」
彼は、指の先で日付を示した。
「約束したまま、動いていません」
その日付を、レティシアは覚えていた。
覚えてはいた。
ただ、思い出す用事が、一度もなかった。
「……いま、必要でしょうか」
ロイドの手が、止まった。
「合理的です」
彼は、いつもの言い方をした。
「王妃陛下の名は、いまも紙の上では罪人のままです。紙の上のことは、紙の上でしか消えません」
「……そうですね」
「乗り気では、ないのですね」
「……はい」
レティシアは、正直に答えた。
隠す理由が、思いつかなかった。
「私の名は、もう、呼ばれていますから」
朝、下働きの娘が呼ぶ。
夜、夫が呼ぶ。
紙の上の名前を、誰も呼ばない。
ロイドは、しばらく彼女を見ていた。
「王妃陛下」
「はい」
「それは、あなたのためだけの話ではありません」
彼は、書状を閉じた。
「罪人のままの人を王妃に据えている国が、ここにあります。困るのは、国のほうです」
レティシアは、口をつぐんだ。
――そう言われると、断りにくい。
この男は、いつもそこを突いてくる。
「……どなたが、お決めになったのですか」
「宰相府です」
「どなたが、言い出されたのでしょう」
ロイドは、少し黙った。
「宰相府です」
同じ答えが、二度返ってきた。
言い出した人の名を、この男は言わない。
言わないことで、答えている。
草案は、まだ届いてもいない。
届く前から、話のほうが先に歩き出していた。
*
エッシェン侯爵夫人は、その日も王城に上がっていた。
この二月で、四度目だった。
用件は、いつも小さい。慈善会の名簿、寄進の礼、庭の花。
小さい用件で四度来る人を、追い返す理由はない。
「まあ、王妃さま」
中庭で、ベアトリスは足を止めた。
驚いた顔をした。
驚いていないことが、その角度で分かった。
「よいお話を、伺いましたわ」
「……何を、でしょう」
「記録の訂正ですって」
早い、とレティシアは思った。
書状が届いて、まだ半日だ。
「宰相府がお決めになったこと、と伺いましたけれど」
ベアトリスは、扇を開いた。
「王妃さまがお望みになったのかと、思っておりましたの」
「……いいえ」
「まあ」
彼女は、笑った。
「ご謙遜」
その一語で、十分だった。
*
噂は、二日で回った。
王妃は、自分の名誉のために、国の記録を書き換えさせようとしている。
誰も、そうは言わない。
言わずに、そう伝わる形にしてある。
「否定なさいますか」
エマが、灯を足しながら訊いた。
「……いいえ」
「失礼を承知で、伺います」
エマは、灯から手を離さなかった。
「本当に、お望みではないのですか」
丁寧語で、核心を突く。
「……はい」
「一度も、思われなかったのですか」
レティシアは、少し考えた。
あの広間で、名前を返してもらえなかった日のことだ。
思い出そうとして、うまく像が結ばない。
「……忘れていました」
嘘ではなかった。
エマは、それ以上訊かなかった。
否定すれば、否定するほど、本当らしくなる。
この手は、レティシアが乗っても乗らなくても効く。
進めれば、名誉のために国を使った王妃になる。
退けば、無実だと言えない王妃になる。
――きれいな手だわ。
ただし、あの人の手とは、質が違った。
アデライドの手は、いつも、誰も悪者にならない形をしていた。
この人の手は、そうではない。
誰が傷つくかを、はじめから勘定に入れていない。
胸の奥が、冷えた。
*
異変は、翌朝だった。
離宮から、書状が来た。
『記録の訂正の議、これに反対する』
署名は、アデライド・ヴァンデル。
レティシアは、その紙をしばらく見ていた。
「……いつ、届いたのですか」
「今朝、いちばんに」
マルグリット夫人が、写しを机に置いた。
「宰相府が離宮へお伝えしたのは、昨日の夕刻でございます」
「では」
「あの方は、その日のうちにお書きになりました」
夫人の声が、少しだけ低くなった。
「私は長く、あの方のお側におります」
「はい」
「あの方がその日のうちに何かをお決めになったのを、初めて見ました」
*
夜。
レティシアは、三つの書状を並べた。
茶会のとき、あの人は三日置いた。
灯替えの儀のときも、人事のときも。
置いてから、動く人だ。
置くのは、余裕ではない。
置いたほうが効くと、知っているからだ。
効かせるために置く人が、今回だけ、置かなかった。
――間に合わせようとしている。
何に。
レティシアは、宰相府の書状をもう一度開いた。
一つ、断罪の記録を訂正する。
二つ、功績を再評価する。
三つ、公に発表する。
どこにも、王太后の名はない。
どこにも、離宮の不利益はない。
この人が損をする条項が、一つもなかった。
それなのに、この人はその日のうちに反対した。
胸の奥に、引っかかりが残った。
東庭で背中を見送ったときと、人事局の棚の前と、同じ形をしていた。
三つ目だった。
灯を落とす。
その紙に名前が載るのが自分だけではないことに、レティシアはまだ気づいていない。
損をする条項が一つもない議に、なぜあの人は即日で反対したのか。「置いたほうが効くと知っている人が、今回だけ置かなかった」――その不自然さを、読者と一緒に見たくて書きました。
次は「離宮の灯」。夜ごと点っていた灯りの、本当の理由が見えてきます。レティシアが、夫の側の夜を初めて知る回です。




