第14話 離宮の灯
「王妃さまが、お進めになればよろしいのに」
ベアトリスは、五度目に上がってきた日にそう言った。
慈善会の名簿を返しに来た、という用件だった。
名簿は、返す必要のないものだった。
「ご自分の潔白を、ご自分でお示しになる。当たり前のことですわ」
「……」
「それとも、お引きになりますの」
扇の骨が、規則正しく鳴っている。
*
進めれば、俗物になる。
退けば、疚しいことになる。
どちらに転んでも、この人は損をしない。
――損をしない場所にしか、立たない人だ。
レティシアは、そこで一つ、気づいた。
この人が席次を外したことがないのは、当てているからでも、決めているからでもないのかもしれない。
もう決まったことだけを、決まったあとで口に出しているのだとしたら。
外れるはずが、ない。
「侯爵夫人」
レティシアは、静かに言った。
「あなたは、この議に賛成でしょうか。反対でしょうか」
ベアトリスの扇が、止まった。
「まあ」
「どちらでも、あなたは困りません」
「……存じ上げませんでしたわ」
彼女は、笑った。
笑ったまま、答えなかった。
その日の勝負は、そこで終わった。
誰も勝たず、誰も負けなかった。
――まだ、届かない。
胸の奥が、ひとつ、鳴った。
*
「陛下が、離宮へおいでです」
マルグリット夫人は、書類を揃えながら、そう言った。
「……今日、ですか」
「今日も、でございます」
レティシアの手が、止まった。
「あの夜から、幾度も」
夫人は、顔を上げなかった。
「私は、王妃さまの味方ではありません。王妃という仕事の味方です」
「……はい」
「王妃が知らないことを、王だけが知っている。それは、私の前提に合いません」
夫人は、一礼して出ていった。
レティシアは、しばらく動かなかった。
あの夜。
彼が単身で離宮へ行った、あの夜だ。
灯りが朝まで消えなかった、と後で聞いた。
一度だと、思っていた。
*
夜。
「……行っておいでなのですね」
アレクシスは、書類から目を上げなかった。
一拍あった。
「……ああ」
「なぜ、教えてくださらなかったのですか」
「君が、止めるからだ」
即答だった。
レティシアは、羽根ペンを置いた。
「止めます」
「知っている」
「これは、私の仕事です」
彼は、初めて顔を上げた。
「今度は、違う」
「……」
「あれを約束したのは、王城だ」
彼は、書類を閉じた。
「私は、その王城の王だ」
短い断定だった。
言い返す言葉を、レティシアは持たなかった。
彼の言うことは、正しい。
正しいから、困った。
「……お義母さまは」
「……母上とは」
一拍。
いつもの一拍だった。
この人は、その一語の前だけ、必ず遅れる。
「私が話す」
あの夜と、同じ台詞だった。
あのとき、レティシアは「いいえ」と言った。
彼は、引き下がった。
――今度は。
「いいえ」
レティシアは、言った。
アレクシスは、引き下がらなかった。
「今回は、譲れない」
沈黙。
彼は、それきり何も説明しなかった。
この人は、理由を言わない。
理由がないのではない。言えば、彼女が背負うと知っている。
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
――ずるい。
守られている、と思った。
あの三年の彼女なら、それを幸福と呼んだはずだ。
今は、呼べない。
守られることは、対等ではない。
対等でないものは、いつか、どちらかが降りる。
「一つ、伺っても」
立ち上がりかけた彼の背に、レティシアは言った。
「陛下は、あの記録を、なぜ直したいのですか」
アレクシスは、止まった。
答えるのに、時間がかかった。
「……君は、直したくないのか」
「……はい」
彼は、振り返らなかった。
「そうか」
それだけだった。
扉が閉まる音を、レティシアは聞いていた。
――違う。
あの人は、私のために直したいのではない。
だとしたら、誰のために。
答えは、出なかった。
*
評定の日が、決まった。
議題は一つ。記録の訂正。
通知は、その日のうちに各所へ回された。
夕刻、離宮から返答が届いた。
『出席』
レティシアは、その二文字を見ていた。
「王太后さまが、評定に」
ロイドが、めずらしく言葉を切った。
「先王の御代以来です。俺の知るかぎり、一度も」
「……そう」
「合理的では、ありません」
彼は、通知の束を揃えた。
「離宮の反対は、もう届いています。あの方が座らずとも、議は割れる。ご自身で座れば、王妃陛下と正面から並ぶことになる」
「並ぶと、どうなりますか」
「勝っても負けても、あの方は評定に呼ばれた王太后になります。損しかない」
ロイドは、束を置いた。
「損を承知で座る人は、一つしかありません」
「……何でしょう」
「他人に任せられない用件がある人です」
レティシアは、通知の写しを見た。
議題は、一つだ。
彼女の名前を、紙の上で直すこと。
それだけの紙のために、先王の御代から動かなかった人が動く。
「ロイド」
「はい」
「私は、この議に興味がありません」
「存じております」
「興味のない議で、あの方が損をしにおいでになります」
レティシアは、写しを置いた。
「……順番が、逆です」
*
その夜、レティシアは離宮の方角を見た。
灯が、点いていた。
あの人は、三日置く人だ。
効かせるために、置く人だ。
その人が、置かずに動き、御代を跨いで初めて、自分で座る。
――何を、守っているのだろう。
訂正の草案は、評定の朝に配られる。
レティシアは、まだそれを読んでいなかった。
「守られることは、対等ではない。対等でないものは、いつかどちらかが降りる」。夫婦の対等について、この物語がずっと考えていることです。
第4話で引き下がった彼が、同じ台詞を言って、今度は引き下がりません。「引き止めない男」が、ここで一度だけ反転します。
次は「では、やめましょう」。第一章の、いちばん静かな山場です。
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