第15話 では、やめましょう
王太后は、扉が開く前から座っていた。
誰よりも早く来て、誰にも案内をさせなかった。
評定の間の空気が、その一点だけ温度を持っていない。
「始めてください」
アデライドは、宰相に言った。
自分が呼ばれた側であることを、その声はまったく気にしていなかった。
*
草案が配られた。
三枚あった。
「記録は、王家が正しいと保証したものです」
アデライドは、一枚目を置いた。
「訂正するとは、王家が誤ったと認めることです。一度でも誤りを認めた記録を、この先、誰が信じますか」
「では、誤ったまま置けと」
宰相の声は、疲れていた。
「置けとは申しません。急ぐ理由がない、と申しております」
誰も、返せなかった。
「功績の再評価も、同じことです」
アデライドは、二枚目を置いた。
「王城が王妃の働きを公に認める。それは、王城が三年のあいだ認めなかったと、王城自身が書き残すことです」
温度のない声だった。
どの一行にも、穴がなかった。
この人の論は、いつもそうだ。
正しいことしか言わない。
正しいことだけで、人は黙る。
レティシアは、三枚目を読んでいた。
訂正文の、文例だった。
『――が宣した断罪は、事実に基づくものではなかった』
空欄の前に、一行あった。
『第一王子エドワード・ヴァンデル』
訂正とは、誤りを消すことではない。
誤りを、誰が犯したかを確定させることだ。
この一行は、消えない。
国が続くかぎり、書庫の棚で、公式に。
――ああ。
レティシアは、顔を上げた。
アデライドは、彼女を見ていなかった。
三枚目を見ていた。
さっきから、ずっと同じ一行を。
この人は、私の功績を認めたくないのではない。
嫉妬でも、意地でもない。
この人は、息子の名前が刻まれる場所を、見ている。
「宰相」
レティシアは、立ち上がった。
「少し、お時間をいただけますか」
*
控えの間。
レティシアは、人払いをした。
あの朝、この人は人払いをしなかった。
聞かせるためだった。
だから、しなければならないと思った。
「お義母さま」
アデライドは、答えない。
「訂正文には、あの方のお名前が入ります」
「……」
「『第一王子エドワード・ヴァンデルが宣した断罪は、事実に基づくものではなかった』」
レティシアは、静かに続けた。
「その一行は、消えません。この国が続くかぎり、いちばん正しい紙の上に」
沈黙。
第一王子は愚かだった、と。
この城が、公式に、永久に。
アデライドは、窓の外を見ていた。
やがて、口を開いた。
「あの子は」
声に、温度があった。
あの朝、一度だけ乗ったのと、同じ温度だった。
「愚かでは、ありません」
それだけだった。
それで、全部だった。
レティシアは、自分の胸の奥が、静かに、ゆっくりと沈んでいくのを感じた。
人を切らない人が、なぜ「能力は要らない」と言うのか。
その物差しが、何を守るために作られたのか。
――そういうことだったのか。
*
評定の間に、戻った。
全員が、待っていた。
宰相が、口を開きかける。
レティシアは、先に言った。
「では、やめましょう」
断定だった。
自分でも、驚くほど短かった。
空気が、止まった。
「王妃陛下」
宰相が、腰を浮かせた。
「我々は、この議のために」
「はい」
「あなたの名は、いまも」
「ええ」
レティシアは、頷いた。
「紙の上では、罪人のままです」
誰も、動かなかった。
留飲は、ここにはない。
この部屋で、誰かが報われることは起こらない。
「私の名は、もう呼ばれています」
レティシアは、草案を閉じた。
「朝、下働きの娘が呼びます。夜、陛下が呼びます」
「……ですが」
「紙の上の名前を直すために、誰かの息子の名前を汚す必要は、ありません」
宰相の口が、閉じた。
「功績の再評価は」
ロイドが、静かに訊いた。
「誰も見ていない仕事は、誰も見ていないままで構いません」
レティシアは、答えた。
「見られるために、していたのではありませんから」
アレクシスが、こちらを見ていた。
「……いいのか」
一言だった。
「……はい」
彼は、それ以上、何も言わなかった。
議は、その場で取り下げられた。
*
廊下で、アデライドが待っていた。
礼は、なかった。
この人は、借りを受け取らない。
「王妃の座を、お降りなさい」
同じ言葉が、三度目に置かれた。
――ああ、この人は。
容赦を、しない。
「……お断りします」
レティシアは、答えた。
あの朝と、同じ声だった。
アデライドが、動かなくなった。
「あなたは」
名は、呼ばれなかった。
「名誉を、捨てました」
「はい」
「王城が公式に約束したものを。惜しくないのですか」
「……惜しくは、ありません」
「なら」
声が、わずかに揺れた。
初めて聞く揺れだった。
「……なぜ、引かないの」
レティシアは、答えなかった。
言えなかったのではない。
言葉が、まだ形になっていなかった。
名誉のためではない。
意地でもない。
この座が欲しいわけでも、ない。
欲しいものは、何もなかった。
それなのに、引くことだけができない。
引けば、何かを破ることになる。
――何を。
それが分からないまま、彼女は二度、断ってしまった。
アデライドは、しばらく彼女を見ていた。
それから、背を向けた。
衣擦れの音が、遠ざかっていく。
振り返りは、しなかった。
*
その夜、離宮の灯は、点かなかった。
翌朝、エッシェン侯爵夫人から二通目の招きが届いた。今度の紙は、上等ではなかった。
訂正とは、誤りを消すことではなく、誰が誤りを犯したかを確定させること。あの人が守っていたものの正体を、どうか静かに受け取っていただけたら。
そして「では、やめましょう」の直後、アデライドは初めて自分から問いを投げます。「……なぜ、引かないの」。レティシアは、まだ答えられません。
答えが出るのは、第30話です。次は「上等でない紙」。格を落とした二通目の招待から、第二章が始まります。




