第16話 上等でない紙
紙が、薄かった。
エマが封を切る前に、レティシアはそれを見ていた。
一度目の招きは、上等だった。
断られることを想定していない紙だ、とあのとき思った。
今度のものは、どこの家にもある紙だった。
「……お受けに、なりますか」
エマが訊いた。
前と、同じ問いだった。
前とは、違う声をしていた。
*
「行かないほうが、合理的です」
ロイドは、即答した。
「紙を落とすのは、格を落とすということです。応じれば、落とされた格をお認めになったことになります」
「行かなければ」
「逃げた、ということになります」
彼は、招きを机に戻した。
「どちらでも、あの方は損をしません」
損をしない場所にしか、立たない。
その読みは、もう持っていた。
持っていて、まだ、どこにも使えていない。
「紙の格は、あの方がお決めになったことです」
レティシアは、招きを取った。
「受け取るかどうかは、私が決めます」
ロイドが、言いかけて、止まった。
「……合理的では、ありません」
「はい」
「ですが」
彼は、少し考えた。
「筋は、通っています」
*
エッシェン侯爵邸の広間は、前と同じに明るかった。
窓が大きい。昼に灯の要らない家だ。
「まあ、王妃さま」
声の温度も、同じだった。
変わっていたのは、椅子だった。
窓を背にした、端の席ではない。
広間の中ほどの、婦人たちに混じった一つ。
――普通の席だわ。
上座では、なかった。
王妃を上座に据えない。それは、間違いだ。
間違いは、指摘できる。
指摘すれば、席次の話になる。
席次の話をすれば、この人の土俵に上がる。
レティシアは、腰を下ろした。
「あの議は、お流れになったとか」
ベアトリスは、茶が一巡するのを待ってから言った。
広間の音が、少しだけ薄くなる。
「はい」
「まあ」
扇が、ゆっくりと開いた。
「王妃さまご自身が、お取り下げになったと伺いましたわ」
「はい」
「……存じ上げませんでしたわ」
夫人は、口元を隠した。
「ご自分の潔白を、ご自分でお捨てになるなんて」
誰も、笑わなかった。
笑わないことが、答えだった。
――そう聞こえるのだわ。
レティシアは、茶を置いた。
あの部屋で、彼女は誰かの息子の名前を守った。
この広間には、その部屋がない。
あるのは、結果だけだ。
王妃は、潔白を証す機会を与えられ、自分でそれを捨てた。
捨てる人間は、一つしかいない。
証されると、困る人間だ。
「お直しになれば、よろしかったのに」
ベアトリスが、扇の先を頬に当てた。
温かい声だった。
「わたくしなど、王妃さまのお立場でしたら、真っ先に」
「……ええ」
「では、なぜ」
広間の全員が、待っていた。
言い訳をすれば、広間に残る。
残ったものは、次の茶会でもう一度話される。
三度話されれば、それは事実になる。
レティシアは、それを知っていた。
「理由は、申し上げません」
扇が、止まった。
「……まあ」
「取り下げたのは、私です。それは、そのとおりです」
レティシアは、顔を上げた。
「そこから先を、どうお読みになるかは、皆さまのご随意に」
沈黙。
誰かの茶碗が、受け皿に触れた。
――否定を、待っていたのだわ。
この人は、いつもそれを待っている。
否定は、言い訳だ。
言い訳は、残る。
残ったものだけが、席を動かす。
ベアトリスは、しばらく扇を止めていた。
それから、笑った。
「王妃さまは、お強いのね」
三度目だった。
同じ言葉を、同じ形で置いていく人だった。
*
玄関の間で、ベアトリスが横に並んだ。
見送りは、家人の仕事だ。
この人が自分でそれをするのは、言うことがあるときだけだった。
「来季の席次のこと」
「……はい」
「王妃宮の分も、そろそろ決まりますわね」
レティシアは、足を止めた。
王妃宮に、席次はない。
王妃宮は、席ではない。
――人だ。
紙で回している宮の、その紙を書いている人たちだ。
「王妃宮は、席ではございません」
「まあ」
ベアトリスは、扇を閉じた。
「そうかしら」
温度は、変わらなかった。
「あそこにいらっしゃる方々にも、来季はございましてよ」
*
馬車の中で、レティシアは膝の上を見ていた。
得たものが、一つある。
この人は、席を動かすと言わなかった。
来季がある、と言っただけだ。
言われた者が、自分で数える。
自分の、来季を。
――形が、ない。
お義母さまの手には、形があった。
黙らせる。教えない。抜く。
形があるものは、裏返せた。
この人の手は、声だけでできている。
声は、裏返せない。
胸の奥が、静かに冷えた。
冷えたところに、もう一つ、落ちてきたものがあった。
あの広間で、この人は一度も嘘をつかなかった。
『わたくし、何もしておりませんもの』
『そうなるだろう、と申し上げただけ』
本当のことだけを、言っている。
本当のことだけで、王妃は疚しくなった。
*
王妃宮の扉を、下働きの娘が開けた。
いつもの朝と、同じだった。
机に、紙が置いてある。
『王妃宮の朝 ――誰がやってもよいこと』
書き足された行が、また増えていた。
娘の字だった。
レティシアは、その一行を読んだ。
読んでから、羽根ペンを取った。
まだ、間に合う。
そう、思った。
第二章もお読みくださりありがとうございます。
同じ言葉を、同じ形で三度置く。それだけで脅しになる――社交には、そういう文法があります。ベアトリスの「お強いのね」を、回を追って数えてみてください。
次は「来季には、居ないそうです」。紙は一枚も動かないのに、人が去っていきます。




