第17話 来季には、居ないそうです
朝の扉は、いつもの刻限に開いた。
下働きの娘が、燭台を運んでくる。
窓を開け、灰を落とし、火を入れ、水を替える。
少し前まで、誰も知らなかった順だ。
今は、紙に書いてある。
「王妃陛下」
娘は、燭台を置いてから言った。
置く手つきは、いつもと変わらなかった。
「一つ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「ええ」
「わたし、来季には居ないそうです」
レティシアは、羽根ペンを置いた。
「……どなたが、そう」
娘は、少し困った顔をした。
困っているのは、言いにくいからではなかった。
答えが、ないからだった。
「どなたも、おっしゃいません」
それから、付け足すように言った。
「みなさま、そうおっしゃいますので」
*
「人事局には、何も来ておりません」
ロイドは、綴じを閉じた。
「異動の申し出も、内示も、伺いもです。紙は、一枚も動いていない」
「では、あの子の来季は」
「あります」
即答だった。
「紙の上では、何も起きていません」
レティシアは、頷いた。
頷いてから、それが答えになっていないことに気づいた。
紙の上では、何も起きていない。
それなのに、あの子は自分の来季を数えている。
「ロイド」
「はい」
「紙の上で起きていないことを、どう止めますか」
ロイドは、答えなかった。
書付を揃え直し、綴じの角を整え、それから手を止めた。
いつもなら、そこまでの間に答えが出ている人だった。
「……止め方が、ありません」
初めて聞く声だった。
この人が「合理的ではない」と言わないときは、対処が無いときだ。
合理的でない、と言えるうちは、まだ比べる相手がある。
「一つだけ、形はあります」
やがて、ロイドは言った。
「王妃宮の人員は来季も動かさぬと、書いてお出しになる。書けば、紙が残ります」
レティシアは、その紙を頭の中に置いてみた。
『王妃宮の人員は、来季も動かさない』
置いた瞬間に、分かった。
そんな紙は、この宮の誰も求めていない。
求めていない紙が貼られれば、求められる何かがあったことになる。
「……その紙を読んだ者は、何を思うでしょう」
ロイドが、目を伏せた。
「……やはり、動くのだと」
「はい」
「取り下げます」
彼は、手元の紙を裏返した。
「否定は、言い訳です。……先日、王妃陛下がおっしゃったとおりです」
*
昼までに、二人が来た。
書記官と、洗い場の女だった。
どちらも、暇を願い出た。
理由は、家の都合だった。
二人とも、同じ言い方をした。
同じ言い方は、どこかで聞いた言い方だ。
「お引き止めは、なさらないので」
エマが、扉を閉めてから訊いた。
追わない、と決めていた。
抜かれた人を追わず、残った人で回す。
それが、二月前の答えだった。
あのときは、抜かれた。
今度は、抜かれていない。
自分から、出ていく。
「……追えば」
レティシアは、言いかけて止めた。
追えば、この宮に残ることが危ういと、認めることになる。
認めれば、危うくなる。
言われていないことが、本当になる。
あの人の手は、それだ。
「レティシア様が悪いようには、なりませんよ」
エマが、湯を注ぎながら言った。
「悪いようにはなりません。ただ、居なくなるだけです」
*
夕方、エマが紙を持ってきた。
『王妃宮の朝 ――誰がやってもよいこと』
行は、増えていなかった。
昨日と、同じ丈だった。
「レティシア様」
エマは、その紙を机に置いた。
「これ、止まりました」
「……ええ」
「書いても、来季に読む人がいないなら、書く意味がありませんもの」
丁寧な声だった。
丁寧な声で、いちばん痛いところを言う人だった。
レティシアは、紙を見ていた。
これは、彼女の武器だった。
誰がやってもよいことにすれば、誰かがやめても回る。
人に頼らない。追わない。
その代わりに、紙が増える。
増えた紙が、この宮の記憶だった。
――紙は。
紙は、噂に勝てない。
書いてあるとおりにやれば、朝は回る。
だが、朝を回すのは紙ではない。
人だ。
人は、自分の来季を、自分で数える。
数えて、静かに、居なくなる。
紙は、去る人を引き止められない。
去る人が居なくなれば、紙は、ただの紙になる。
胸の奥が、冷えた。
二月前、この宮は空になった。
あのときは、回した。
今度は、回すものが無くなる。
*
夜。
窓の外に、灯が一つ点いていた。
離宮ではない。
王妃宮の、洗い場の灯だった。
まだ、誰かが働いている。
来季には居ないと数えた人が、今日の分の水を替えている。
レティシアは、しばらくそれを見ていた。
あの三年の彼女なら、ここで自分の腕を疑ったはずだ。
今は、疑わない。
紙は、正しかった。
正しくても、届かないところがあるというだけだ。
――では、何が届くのだろう。
彼女は、羽根ペンを取った。
紙を書き足すためではなかった。
書いたのは、問いのほうだった。
『あの方は、何を言ったのか』
言ったことしか、あの人はしていない。
していないものは、裏返せない。
裏返せないなら、言わせるしかない。
――何を。
答えは、出なかった。
出なかったが、探す場所が、初めて一つになった。
レティシアは、その一行に印をつけ、灯を落とさずに置いた。
お読みいただきありがとうございます。
「誰がやってもよいこと」を武器にしてきた人が、去る人だけは引き止められない。武器の届かない場所を、初めて知る回です。
次は「遅れて言う人」。当てるのでも決めるのでもない、第三の手の正体に触れます。




