第18話 遅れて言う人
義理の帳簿は、開いても白かった。
エッシェン侯爵家は、どこからも金を借りていない。
娘も、嫁がせていない。
借りがないということは、貸しもない、ということだった。
あの茶会のとき、彼女はこの帳面で人を動かした。
誰が誰に頭が上がらないか。それだけで、空いていた席は埋まった。
この家には、頭の上がる相手がいない。
帳面が、初めて役に立たなかった。
*
「あの家は、どこにも属しておりません」
ロイドは、綴じを繰った。
「王太后派と呼ばれておりますが、離宮に金は流れていない。頼まれごとも、していない」
「では、なぜ王太后派と」
「そう呼ばれているだけです」
彼は、綴じを閉じた。
「呼び始めたのが誰かは、分かりません」
――たぶん、あの人だ。
レティシアは、灯替えの日のことを思い出した。
あのときは、順に意味があった。
意味を拾い直せば、順は裏返った。
噂には、順がない。
手順のないものは、読めない。
読めないものは、裏返せない。
打つ手が、なかった。
*
「ロイド」
「はい」
「あなたは、前にこう言いました。当てているのか、決めているのか、誰にも区別がつかない、と」
「申しました」
「三つ目が、あります」
ロイドの手が、止まった。
「……三つ目、とは」
「遅れて、言っているのです」
レティシアは、席次の綴じを机に広げた。
薄い綴じだった。
書いてあるのは、決まったあとの席だけだ。
誰がどう決めたかは、どこにもない。
「席は、どこかで決まります」
「はい」
「決まってから、この綴じに書かれるまでのあいだに、間があります」
ロイドが、綴じを見た。
「……その間に、口に出す」
「はい」
当てたのではない。
決めたのでも、ない。
もう決まっているものを、決まったあとで、書かれる前に言っている。
外れるはずが、ない。
「……合理的です」
ロイドが、低く言った。
「いちばん確実で、いちばん安い。人を動かす費えが、一つもかからない」
「損をしない場所にしか、立たない人です」
「はい」
彼は、綴じから顔を上げなかった。
「それを、何年も続けている。……誰にも、気づかれずに」
レティシアは、席の名を一つずつ辿った。
どの席にも、動いた跡がない。
動いた跡がないのは、動かす前に言われていたからだ。
言われたほうが、言われたとおりに座る。
座れば、当たったことになる。
*
「証せますか」
レティシアは、訊いた。
ロイドは、長いあいだ答えなかった。
「……証せません」
「なぜでしょう」
「あの方が、嘘をついていないからです」
彼は、綴じを閉じた。
「そうなるだろう、と申し上げただけ。……本当に、そうなった。それだけのことです」
「では、順を並べれば」
「順が、ございません」
ロイドは、言った。
「決まった刻限も、聞いた相手も、どこにも書かれていない。書かれていないものは、並べられません」
灯替えの日、彼女は帳面を並べて見せた。
石工の手間賃と、灰の搬出と、炉の火止め。
並べれば、順が立った。
立った順は、誰にも否定できなかった。
今度は、並べるものが、ない。
「王妃陛下」
ロイドは、めずらしく先に言った。
「掴んでも、使えないものがあります」
「……はい」
「これは、その一つです」
彼は、綴じを棚に戻した。
「証せないものを申し上げれば、王妃陛下が、あの方を妬んだことになります」
その言い方は、正確だった。
正確な人は、こういうとき、いちばん容赦がない。
「では、半分ですね」
レティシアは、言った。
「……半分、とは」
「分かったのに、誰にも言えない。それは、半分だけ分かったのと同じです」
ロイドは、否定しなかった。
否定しないことが、この人の肯定だった。
「一つ、合わないところがございます」
やがて、彼は言った。
「王妃宮のことです。……あの方は、来季があるとしかおっしゃっていない。決まったことが、一つもない」
レティシアは、頷いた。
そこは、合っている。
席次では、決まったものを、決まったあとで言う。
王妃宮では、何も言っていない。
どちらも、外れない。
「あの方は、当てるのが上手なのではありません」
レティシアは、綴じの背に指を置いた。
「外れない言い方だけを、選んでおいでなのです」
*
夜。
レティシアは、灯を落とさずに座っていた。
掴んだ。
掴んだのに、何も動いていない。
あの子は、来季を数えている。
紙は、止まったままだ。
――当てているのでも、決めているのでもない。
なら、当たらない場所へ連れていけばいい。
あの人が外れたのは、一度きりだった。
第一王子が王になる、と言ったときだけ。
あのとき、何が違ったのか。
――まだ、決まっていなかった。
レティシアの手が、止まった。
決まる前に言えば、外れる。
外れれば、遅れて言っていたことが、順になって見える。
言わせればいい。
まだ決まっていないことを、言わせればいい。
彼女は、羽根ペンを取った。
取って、そのまま置いた。
まだ決まっていないことを訊く場が、要る。
その場を作れるのは、決める人だ。
レティシアは、自分の手のひらを見た。
王妃には、社交の席次を決める権限がない。
席次は、あの人の側にある。
――私に、決める場がない。
ありがとうございます。
予言者の正体は、たいてい情報の時間差です。「外れない言い方だけを選んでいる」人に、証明という土俵でどう向かうか。
次は「引き継ぎは、ございません」。口伝だけで回っていたものが、手を引かれた途端に止まります。




