第19話 引き継ぎは、ございません
式部官は、扉の前で止まっていた。
「どうぞ」
「……失礼いたします」
入ってきて、また止まった。
手に、何も持っていない。
この人が手ぶらで来たのは、初めてだった。
「慈善会の、刻限でございます」
「刻限」
「例年、この時期には、もう動いております」
式部官は、そこで黙った。
黙ったまま、動かなかった。
「では、動かしてください」
「……動かせません」
「何が、足りないのでしょう」
式部官は、少し考えた。
考えて、答えられなかった。
「……分かりません」
「例年は、何から始めますか」
「例年は」
式部官は、そこで手を宙に置いた。
置いた手が、何も掴まなかった。
「……お話が、参ります。参りましたら、その通りにいたします」
「参らなければ」
「参らなかったことが、ございません」
この人は、席次のときも同じ顔をした。
あのときは、白紙の帳簿を持ってきた。
今度は、帳簿もない。
*
慈善会は、王家の年次の事業だ。
寄進を集め、配る先を決め、当日の場を整える。
王城の名で、行われる。
「王城の記録は、これだけです」
ロイドが、薄い綴じを置いた。
開くと、日付と、金額と、滞りなく終わりましたという一行しかない。
どうやって集めたのか。
誰に配ったのか。
どこにも、書いていない。
「これで、回っていたのですか」
「回っていました」
ロイドは、綴じを見ていた。
「毎年、滞りなく」
「どなたが、回していたのでしょう」
ロイドは、答えなかった。
答える必要が、なかった。
この城で慈善会の話をすると、名前は一つしか出てこない。
「府に、割ってはいかがでしょう」
やがて、彼は言った。
「寄進は財務府、配る先は神殿、場は式部官。分ければ、動きます」
「割った先の誰が、束ねますか」
ロイドが、口を閉じた。
束ねていた人が、居ない。
居ないのに、誰も、その席の名前を知らない。
*
問い合わせを、離宮へ出した。
書式どおりの、短い文だった。
『本年の慈善会につき、例年の次第を承りたく』
返答は、その日のうちに来た。
早かった。
あの人は、三日置く人だ。
効かせるために、置く人だった。
置かずに返ってきた紙を、レティシアは開いた。
一行だった。
『こちらから申し上げることは、ございません』
署名は、なかった。
封蝋だけが、離宮のものだった。
*
神官長を呼んだ。
寄進の受け皿は、神殿だ。
「例年、どなたから話が参りますか」
「王太后さまでございます」
「どのような形で」
神官長は、口ごもった。
「……お話が、ございます」
「書面では」
「ございません」
「では、いつ」
「参ります」
神官長は、そう言った。
「毎年、その頃になりますと、参りますので」
参るものが、今年は参らない。
それだけのことだった。
「では、どの家が、いくら出しておいでですか」
「……存じません」
神官長は、頭を下げた。
「受け取るだけでございました。誰から幾ら、とは、伺ったことがございません」
礼をして、彼は出ていった。
困った顔を、していた。
困っているのに、責める相手のいない顔だった。
*
夜。
レティシアは、窓から離宮の方角を見た。
灯は、点いていなかった。
あの評定の夜から、一度も点いていない。
――手を、引かれた。
この人は、容赦をしない人だった。
三度、座を降りろと言った。
式部官を夜に呼び、灯を朝まで点けて、御代を跨いで自分から評定に座った。
その人が、何もしない。
妨げても、いない。
――違う。
この人の手には、いつも形があった。
黙らせる。教えない。抜く。
形があるものは、裏返せた。
今度のものには、形がない。
形がないのではない。
――手が、ない。
あの人は、何もしていない。
何もしていないことが、王城の年次の事業を止めている。
なぜ、と胸の奥が問うた。
あの評定の間で、彼女は議を取り下げた。
あの人の息子の名前が、紙に残らないように。
礼は、なかった。
この人は、借りを受け取らない。
受け取らないなら、なぜ、置いていくものまで無くなるのだろう。
妨げるつもりなら、あの一行は要らない。
要らない紙を、あの人は、置かずに返してきた。
答えは、出なかった。
*
翌朝、式部官が、また手ぶらで来た。
「王妃陛下」
「はい」
「引き継ぎを、お待ちしております」
「引き継ぎ」
「例年、王太后さまより」
式部官は、そこで言葉を選んだ。
選んでも、他に言い方がなかったようだった。
「……お渡しが、ございます」
レティシアは、離宮からの一行を思い出した。
こちらから申し上げることは、ございません。
「式部官」
「はい」
「王太后さまは、何を渡してくださるのでしょう」
式部官が、顔を上げた。
それから、ゆっくりと下ろした。
「……何も、ございません」
声が、小さかった。
「今年は、何も」
式部官は、それきり動かなかった。
レティシアは、机の薄い綴じを見た。
日付と、金額と、滞りなく終わりましたという一行。
その裏に、何年ぶんかの何かがある。
あるはずのものが、どこにもない。
――お義母さま。
あの人は、引いたのだ。
三度も断られた場所から、静かに、自分から。
なぜ引いたのかが、分からなかった。
お読みくださりありがとうございます。
署名なし、封蝋だけの一行――「こちらから申し上げることは、ございません」。引き際にも作法がある、ということを書きたかった回です。
次は「母上」。珍しく、王アレクシスの側から見た夜の話になります。




