第20話 母上
離宮の門は、開いていた。
閉める理由が、ないからだ。
誰も、来ない。
アレクシスは、馬を自分で繋いだ。
供は、連れていない。
連れれば、記録が残る。
記録が残れば、彼女が読む。
――君が、止めるからだ。
嘘では、なかった。
本当のことを一つ置けば、たいてい、そこから先は訊かれない。
幾度目かは、数えていない。
数えるようなものでは、ない。
毎回、同じことをしに来ている。
毎回、同じところで、終わっている。
*
応接の間の灯は、二つだった。
母は、刺繍の枠を膝に置いている。
この人は、明るくする理由のない部屋を、明るくしない。
「……母上」
一拍が、要った。
いつも、要る。
幼いころ、この一語を口にすると、返事は兄のほうへ向いた。
間違いではない。兄も、同じ言葉でこの人を呼んでいた。
だから彼は、呼ぶ前に確かめる癖がついた。
――この一語は、いま、誰に向かうのか。
王になっても、抜けない。
「お座りなさい」
母は、顔を上げなかった。
彼は、座った。
椅子が、冷たかった。
この部屋の椅子は、いつも冷たい。
人が、座らないからだ。
「慈善会のことです」
「もう、いたしません」
針が、動いている。
「引き継ぎを」
「渡すものが、ございません」
この人は、嘘をつかない。
つく必要のある場所に、立ったことがないからだ。
――渡すものが、ない。
それは、渡し方を知らない、ということだ。
誰にも渡さずに済む形で、長く、抱えてきたのだ。
それに、この人は受け取らない。
彼女は、あの評定の間で、兄の名を守った。
母は、それを知っている。
知っていて、礼を言わなかった。
借りを、受け取らない人だ。
受け取れない借りができたとき、この人が取る道は、一つしかない。
同じ場に、立たないことだ。
だから、手を引いた。
誰にも、言わずに。
*
「記録の議は」
母の針が、止まった。
「あの方が、ご自分でお取り下げになったとか」
「はい」
「……なぜ」
アレクシスは、答えなかった。
答えを、持っていないからではない。
母の憎しみには、根がある。
紙だ。
この国でいちばん正しい紙が、あの女は断罪された女だと書いている。
根があるかぎり、憎しみは正しさの顔をして立っていられる。
あの女は、そういう女だ。
母は、そう言い続けられる。
この先ずっと、誰にも咎められずに。
だから、直したかった。
彼女の名誉のためでは、なかった。
母から、憎む理由を取り上げるためだ。
憎しみが消えるとは、思っていない。
根を抜いても、憎しみは、しばらく立っている。
だが、立っているだけのものは、いつか倒れる。
倒れるまで、待てばいい。
彼は、待てる男だ。
それを、妻には言えなかった。
言えば、彼女は必ずこう言う。
――お義母さまから、憎む理由を取り上げないでください。
そういう人だ。
だから、言わなかった。
そして彼女は、知らないまま、それを潰した。
誰かの息子の名を、守るために。
あの夜、彼は振り返らなかった。
振り返れば、顔に出た。
「……そうか」
それだけ言って、扉を閉めた。
*
「あの子は」
母が、言った。
「王になる子でした」
アレクシスは、答えなかった。
兄の話を、一度だけしたことがある。
そのとき母が返したのは、一言だった。
――あなたが、そう言うのですね。
弟の口から出た言葉は、弟が王位を取った理由にしかならない。
だから、二度としない。
「あの方は」
母は、針を戻した。
「賢い方です」
温度は、なかった。
「捨てて見せれば、誰も、それ以上は言えません」
アレクシスは、母を見た。
この人は、そう読むしかない。
読み違えているのでは、ない。
そう読まなければ、三年ぶんの憎しみを、置く場所がなくなる。
「母上」
一拍は、あった。
いつもの一拍だった。
そこで、止まらなかった。
「彼女に向けられた圧は、そのまま、私への圧です」
枠が、膝の上で傾いた。
言えた。
言ってしまえば、一行だった。
この一行のために、幾度も、この門をくぐっていた。
「……私を、責めるのですか」
「いいえ」
即答だった。
「では、あの方をお選びになる」
「違います」
選べ、と言われている。
だが、選べば、片方が下になる。
下になったものは、いつか、降りる。
彼は、それを一度、見ている。
降りていく背中を、引き止めなかった男だ。
二度は、しない。
「母上」
今度は、一拍が要らなかった。
「私は、どちらも降ろしません」
「……どちらも、とは」
母は、枠を見たまま言った。
「そのような道は、ございません」
「作ります」
即答だった。
それきり、彼は説明しなかった。
説明できることなら、幾度も通ってはいない。
道は、まだ無い。
無いことは、知っている。
知っていて、言った。
母は、答えなかった。
答えないことに、この人は慣れている。
だが、針を持ち直さなかった。
膝の上の枠を、しばらく見ていた。
*
門を出て、彼は一度だけ振り返った。
応接の灯は、二つとも点いていた。
消していない。
明るくする理由のない部屋を、明るくしない人だ。
――理由が、あるのか。
アレクシスは、馬を引いた。
王城へ戻れば、妻がいる。
彼女は、訊くだろう。
言わない、と彼は答える。
それで、終わる。
終わったあと、彼女は何も言わずに隣に座る。
言わない男の隣に、座り続けている人だ。
――だから、降ろせない。
胸の奥が、重かった。
重いままで、構わなかった。
城の窓に、灯が一つ点いている。
王妃宮だ。
まだ、起きている。
アレクシスは、馬の足を速めた。
第20話です。ありがとうございます。
降りていく兄の背中を、彼は一度、引き止めませんでした。「二度はしない」と決めている――主人公を降ろせない理由の、裏側の話です。
次は「落ちていた仕事」。誰も仕事と呼ばなかった穴を、数え始めます。




