第8話 栄転
書状は、丁寧だった。
『王妃宮書記官長ヴェルナーを、財務府主計官に推挙する』
『侍女ニナを、王太后宮筆頭侍女に取り立てる』
『書記官三名を、外務府へ配置換えとする』
どれも、栄転だった。
誰も、降ろされていない。
*
「合理的です」
ロイドが、書状を読み終えて言った。
「……そう」
「ヴェルナーは、財務府が三年前から欲しがっていた男です。ニナは、王太后宮の筆頭が空いていた。書記官の三名は、外務府の欠員と数が合います」
彼は、書状を机に戻した。
「一つずつ見れば、どれも正しい」
「まとめて見ると」
「王妃宮が、空になります」
残るのは、エマとロイドと、名簿のいちばん下に並んだ数名だけだった。
断ることは、できた。
王妃が拒めば、人事は止まる。
止めれば、どうなるか。
財務府は、主計官を得られない。
外務府は、欠員を抱えたままになる。
ニナは、生涯で一度あるかどうかの取り立てを、逃す。
――王妃が、自分の手駒を手放さなかったからだ。
そう言われる。
言われても、反論できない。
うまくできている、と思った。
三度目だった。
この人は、誰も悪者にならない手しか打たない。
茶会のときも、儀礼のときも、そうだった。
黙っただけの十二家。
教えなかっただけの王太后。
人を欲しがっただけの、府。
誰も、何もしていない。
それでも、王妃だけが無能になる。
*
ヴェルナーは、書状を持ったまま立っていた。
真面目な男だった。
王妃宮の書類の流れは、この男が一人で組んだ。
「王妃陛下。私は」
「おめでとうございます」
レティシアは、先に言った。
ヴェルナーの言葉が、止まった。
「財務府は、三年あなたを待っていたそうです」
「……ですが、王妃宮は」
「……回ります」
レティシアは、少し考えてから続けた。
「あなたがいなくても回るように、します」
ヴェルナーは、しばらく動かなかった。
「三日、いただけますか」
引き継ぎに三日は要る、とその顔が言っていた。
「いいえ」
レティシアは、首を振った。
「明日、お発ちください」
三日で渡せるものなら、それは初めから紙に書けたはずだ。
書かれていなかったから、この男の頭の中にしか無いのだ。
――口伝は、切れる。
三日前に、それを見たばかりだった。
「王妃陛下」
扉の前で、ヴェルナーが振り返った。
「私は、必要な人間ではなかったということでしょうか」
真面目な男の、真面目な問いだった。
「いいえ」
レティシアは、首を振った。
「あなたが、一人で背負いすぎていたのです」
ヴェルナーの目が、揺れた。
「それは、私が、そうさせました」
彼は、何も言わずに出ていった。
*
王太后宮の庭を、レティシアは通った。
通る必要は、なかった。
だが、通った。
アデライドは、いつもの椅子にいた。
「お義母さま」
針は、止まらない。
「ニナを、よろしくお願いします」
手が、止まった。
「あの子は、朝が強うございます。字が丁寧で、人の名前を覚えるのが早い」
「……」
「王太后宮でも、きっとお役に立ちます」
アデライドは、答えなかった。
庭の風が、刺繍の枠の上を通った。
「あなたは」
やがて、言った。
「怒らないのですね」
「……はい」
レティシアは、一礼した。
「あの子の、栄転です」
背を向けて、庭を出た。
背中に、視線があった。
それが何を測っているのかは、分からなかった。
*
その夜、レティシアは白紙を積み上げた。
「何を、なさるんですか」
エマが、灯を足しながら訊いた。
「書き出します」
「……何を、でしょう」
「全部を」
王妃宮の仕事を、全部だ。
朝、誰が何を開けるか。
書類が、どの順で回るか。
どの家からの手紙に、何日で返すか。
茶の湯を沸かす、刻限。
ヴェルナーの頭の中にあったもの。
エマの手が覚えているもの。
レティシアだけが知っているもの。
全部、紙にする。
「……失礼を承知で、伺います」
エマが、手を止めた。
「それは、どなたのためですか」
丁寧語で、核心を突く。
この侍女の、いいところだった。
レティシアは、少し考えた。
「次の人のためです」
「次の王妃さま、ですか」
「……いいえ」
彼女は、羽根ペンを取った。
「明日ここに来る、誰かのためです」
紙の音だけが、続いた。
三年間、彼女は一人で回していた。
魔法炉も、物流も、会計も、騎士団の配置も。
誰も彼女の名を出さず、それでも彼女がいなければ止まった。
あれを、誇りだと思っていた時期がある。
――違う。
あれは、国を人質に取っていたのと同じだ。
彼女が倒れれば、国が止まる。
そういう国を、彼女は作ってしまっていた。
誰も、悪くない。
彼女が、そうしてしまった。
二度と、やらない。
胸の奥が、静かに熱を持った。
*
窓の外が白む頃、最初の一枚が仕上がった。
『王妃宮の朝 ――誰がやってもよいこと』
その表題を、彼女はしばらく見ていた。
灯替えの儀は、書かれなかったから、切れた。
王妃宮は、書けば、切れない。
――それなら。
人は、抜かれてよいのだ。
抜かれても回るなら、抜くことは手にならない。
レティシアは、二枚目に取りかかった。
途中で、指が止まった。
――人が抜かれる前に、この宮には、誰がいたのだったか。
彼女は、それを知らなかった。
王妃宮の名簿は、彼女が来た日から始まっている。
その前は。
人事局には、記録がある。
誰がいつ、どこへ動いたか。
何十年ぶんも。
レティシアは、羽根ペンを置いて立ち上がった。
お読みくださりありがとうございます。
「人を抜かれて困る宮は、抜かれる前から壊れていた」。属人化を憎むこの人が、抜かれても回る仕組みを作り始めます。三年間、一人で国を回してしまった反省から。
次は「残った人」。人事の帳面に、ある年から始まる空白が見つかります。誰が、いつ、何をやめたのか。




