第5話 物差し
式部官は、次第の写しを持ってこなかった。
「王妃陛下のお役目は、一つでございます」
初老の男は、そう言って一枚の紙を置いた。
紙には、一行しかなかった。
『王妃、先王の御前に立つ』
「……これだけですか」
「これだけでございます」
「立って、何を」
式部官は、少し困った顔をした。
「代々、王妃さまが」
「はい」
「……お決めになってこられました」
レティシアは、その一行をしばらく見ていた。
つまり、正解は書かれていない。
書かれていないものは、あとから間違いにできる。
――きれいな手だわ。
二度目だった。
式部官が下がったあと、彼女は紙を裏返した。
裏にも、何もなかった。
この儀で王妃が何をしてきたかを知っている人は、この城に一人しかいない。
先代の王妃だ。
*
レティシアは、迷った。
王太后付きの教育官を呼べば、呼んだことが伝わる。
王妃が儀礼の次第を知らないと、あちらに知られる。
――それでも。
知らないのは、事実だ。
事実を隠したまま回るものは、どこにもない。
彼女は、呼んだ。
マルグリット夫人は、その日のうちに来た。
「ご用件は」
「儀の次第を、教えていただけますか」
夫人は、まばたきをした。
「王太后さまに、伝わります」
「はい」
「それでも」
「はい」
夫人は、少しの間、レティシアを見ていた。
それから、椅子に座った。
座る前に、扉を閉めた。
「先に、一つ申し上げます」
夫人は、膝の上で手を重ねた。
「私は、王妃さまの味方ではありません」
レティシアは、顔を上げた。
「私は、王妃という仕事の味方です」
「……」
「王妃とは、完成するものではありません」
夫人の声は、教えるときの声になっていた。
「王と共に、作られていくものです。それが、私の仕事の前提です」
だから、と夫人は続けた。
「まだ何もできない王妃を、できないという理由で降ろす。それは、私の前提を否定します」
「私が、誰であっても」
「ええ」
夫人は、あっさり頷いた。
「あなたでなくても、私は同じことを申し上げます」
――ああ。
だから、この人は一人で返事をくれたのだ。
好意ではない。筋だ。
好意で回るものは、好意が切れたら止まる。
筋で回るものは、止まらない。
胸の奥が、静かに、確かに温かくなった。
それから、夫人は紙の一行に目を落とした。
「……ただ、次第は、お教えできません」
「お立場が」
「いいえ」
夫人は、首を振った。
「私も、存じません」
レティシアは、顔を上げた。
「私は長く、この城におります」
夫人の声が、少しだけ低くなった。
「あの方が御前で何をなさっていたのか、一度も見たことがありません」
「誰も、見ていないのですか」
「ええ」
紙の上の一行が、急に違うものに見えた。
書かれていないのではない。
書けなかったのかもしれない、と思った。
「もう一つ、伺っても」
「どうぞ」
「なぜ、王太后さま付きのままなのですか」
夫人は、はじめて言葉を選ぶ顔をした。
「外されないからです」
「……外されない」
「私は、あの方に何度も反対しました」
夫人は、静かに言った。
「一度も、外されませんでした」
レティシアは、動かなかった。
「反対する者を、あの方は切りません。役に立たない者も、切りません」
夫人は、立ち上がった。
扉のところで、少しだけ笑った。
「そういう方が、王妃に能力は要らない、とおっしゃるのです」
*
夫人が帰ったあと、レティシアは長く座っていた。
――役に立つかどうかで、人を切らない。
あの三年、彼女は「役に立つこと」でしか自分を説明できなかった。
説明できる言葉を、それしか渡されていなかった。
アデライドは、その物差しを持っていない。
持っていないから、人を切らない。
――なら。
なら、あの物差しは、何を測っているのだろう。
もう一度、あの朝の声を思い出す。
温度のない声。帳簿を読み上げるような声。
『王妃に、能力は要りません』
『必要なのは、血と、静けさです』
静けさ。
レティシアは、そこで止まった。
――静かにしていろ、ということだ。
能力のある王妃は、静かではいられない。
問題を見つけたら、直してしまうからだ。
つまり。
茶会を成立させればさせるほど。
儀礼を果たせば果たすほど。
あの人の物差しの上で、彼女は王妃から遠ざかっていく。
――勝つほど、遠ざかる。
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
*
夜。
窓の外は、暗かった。
証明してごらんなさい、とあの人は言った。
王妃の仕事を一つでも果たせたなら、引くと。
あれは、罠ではない。
あの人は、嘘をつく人ではない。
一度でも向かい合えば、それくらいは分かる。
だとすれば、答えは一つしかない。
あの人が「果たした」と認める仕事は、能力で果たす仕事ではない。
――王妃の仕事とは、何か。
問いは、あの朝と同じ形をしている。
けれど、少しだけ違って見えた。
答えは、あの人の物差しの上にある。
だから、まず物差しを読む。
構造が見えれば、たいていのものは動く。
レティシアは、羽根ペンを取った。
ただ、一つだけ分からないことがあった。
人を切らない人が、なぜ、人に「能力は要らない」と言うのか。
その物差しを、あの人はどこで手に入れたのだろう。
灯りを落とす。
灯替えの儀は、近い。
「好意で回るものは、好意が切れたら止まる。筋で回るものは、止まらない」。この一行が、最後まで効いてきます。
勝てば勝つほど、あの人の物差しの上では王妃から遠ざかる――五話目にして、勝ち方そのものが問題になりました。
次は「灯替えの儀」。手順書のない、口伝だけの王家の儀式が回ってきます。




