第4話 これは、私の仕事です
東庭の椅子が片付けられたのは、王太后が帰ったあとだった。
十一脚と、一脚。
運ぶ者は、その区別をしなかった。
*
「王妃陛下。書状です」
翌朝、ロイドが机に束を置いた。
昨日までとは、厚みが違う。
「七家から三通、四家から二通。次の茶会の打診です」
「早いこと」
「合理的です」
ロイドは、当たり前のように言った。
「一度出た席には、二度目も出たほうが安い」
レティシアは、その言い方を少しだけ好ましく思った。
誰も、王妃を気に入ったわけではない。
黙るより、出るほうが安くなった。それだけだ。
それでいい、と思った。
好意で回るものは、好意が切れたら止まる。
「レティシア様」
エマが、茶を置いた。
「五通の中に、エッシェン侯爵家は」
「ないわ」
「そうですか」
エマは、それ以上聞かなかった。
聞かないことで、聞いたのと同じことになる侍女だった。
レティシアは、束をもう一度めくった。
やはり、なかった。
*
アレクシスが来たのは、その日の午後だった。
扉が開いて、彼はまっすぐ机の前に立った。
挨拶はない。いつもどおりだった。
「母上が、東庭に来たそうだな」
「はい」
「何を言われた」
レティシアは、少し考えた。
「……エッシェン侯爵夫人のことを、教えてくださいました」
彼の眉が、わずかに動いた。
「教えた」
「はい」
彼は、しばらく黙っていた。
窓の外で、椅子を運ぶ音がしている。
ロイドが書類を抱えて下がり、扉が閉まった。
それから、彼は言った。
「母上とは、私が話す」
一拍が、あった。
「母上」の前には、いつもその一拍がある。
*
胸の奥が、静かに温かくなった。
それは、逃げ道の形をしていた。
茶会の前の夜、彼は『私が一言、言えば済む』と言った。
あれは、手を貸す話だった。断れば、彼は手を引くだけで済んだ。
今度は、違う。
彼が引き受けようとしているのは、仕事ではない。
相手だ。
母と話す、と彼は言った。
話す、で済むはずがないことを、この人は知っている。
知っていて、間に立つと言っている。
――引けば、丸く収まる。
夫が母と話し、母は矛を収め、王妃は何もしなくていい。
いつもの答えだった。
彼女が生涯でいちばん多く選んできた答え。
ただ、今度はそれが、優しさの形で差し出されている。
だから、いちばん断りにくい。
「――いいえ」
レティシアは、静かに言った。
「これは、私の仕事です」
「困る」
即答だった。
「君が一人で立つ理由がない」
「あります」
彼の目が、わずかに開いた。
彼女が言い返すのは、めずらしいことだった。
あの夜、彼女は理由を言わなかった。
言葉が、まだ形になっていなかったからだ。
今日は、形になっている。
「お義母さまは、証明してごらんなさい、とおっしゃいました」
「……」
「私に、です」
窓の外の音が、やんでいた。
「陛下が話をつけてくださったら、証明したのは陛下です」
彼は、動かなかった。
「お義母さまは、引くかもしれません」
レティシアは、指を膝の上で揃えた。
「でも、それは、私が引いたのと同じです」
沈黙。
アレクシスは、長く彼女を見ていた。
「君は、私に何もさせない気か」
声は、低かった。
――違う。
そう言おうとして、言葉が出なかった。
違わないからだ。
この人は、命令の形でしか優しさを渡せない人だ。
その形を、彼女はこれで二度断ったことになる。
「……いいえ」
レティシアは、それだけ言った。
「まだ、一つも終わっていませんから」
アレクシスは、しばらく黙っていた。
やがて、短く息を吐いた。
「……分かった」
分かった、と言っただけだった。
納得した、とは言わなかった。
彼は、扉の手前で足を止めた。
「陛下」
「……今はやめろ」
振り返らずに、彼は言った。
「二人きりの時くらい」
部屋には、二人しかいなかった。
レティシアは、口をつぐんだ。
この取り決めは、まだ新しい。
「……アレクシス」
「ああ」
それだけで、彼は出ていった。
胸の奥が、じん、と熱い。
断ったのに。
断ったのに、温かいのは、なぜなのだろう。
*
その夜。
王城の東にある離宮に、灯りがともっていた。
取次の侍従は、扉の前の人影を二度見た。
供は、いない。
馬を引いてきたのも、本人だった。
「……陛下」
この離宮に王が来たのは、即位してから初めてだった。
「開けろ」
短かった。
「王太后さまは、もうお休みで」
「開けろ」
同じだった。
侍従は、それ以上聞かなかった。
扉の前で、アレクシスは一度だけ足を止めた。
一拍。
「母上」
扉が、閉じた。
侍従は、聞かないために廊下の端まで下がった。
それでも、声が二度、届いた。
どちらも、王のものではなかった。
離宮の灯りは、朝まで消えなかった。
王妃は、そのことを知らない。
*
同じ夜。
レティシアの机に、一通の書状が置かれていた。
王城式部官の名がある。
『灯替えの儀につき、王妃陛下のお役目のご確認に伺いたく』
――お役目。
茶会の次第なら、自分で組める。
だが、王家の儀礼の次第を、彼女は一度も見たことがなかった。
誰も、見せなかったからだ。
レティシアは、書状を灯りに近づけた。
日付は、近い。
――二つ目の手が、来る。
そう思ったとき、彼女はもう、次第の写しをどこで手に入れるかを考えていた。
お読みくださりありがとうございます。
アレクシスは、命令の形でしか優しさを渡せない人です。「母上」と言う前に、必ず一拍置く。その一拍を、書いていて気に入っています。
次は「物差し」。アデライドの『能力は要りません、血と静けさです』という言葉が、どこから来たのかを探り始めます。




