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「王妃の座を降りろ」と義母に言われましたが、お断りします 〜婚約破棄された悪役令嬢ですが、夫は母より私を選びました〜  作者: リリア・ノワール


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第29話 物差しのできた日

 綴じは、納戸の棚に並んでいた。


 慈善会の帳面は、年ごとに綴じられている。


 どの一冊にも、同じことが書いてある。

 列席した家の名。持ち寄られた品。厨に下げた残りの数。


 誰も読まない行が、何十年ぶん、積んである。


 レティシアは、いちばん奥の一冊を引き出した。


 いちばん古い年のものだった。


 最初の頁を開いて、手が止まった。


 隅に、小さく、署名があった。


 『アデライド』


 次の年の綴じを取った。


 無い。


 その次も、その次も。


 どの頁にも、名前は無かった。


 書いたのは、最初の一年だけだった。


 *


 もう一つ、違っていた。


 最初の年の綴じには、余白に書き込みがある。


 灯替えの儀の、灯の順だった。


 厨。薬湯の間。衛所。書庫。


 ――火が要る順だわ。


 祈りの順では、ない。


 余白の隅に、もう一行あった。


 『炉より』


 ――この人も、炉を見たのだわ。


 誰にも、教わらずに。


 レティシアは、次の年の綴じを開いた。


 順だけが、書いてある。


 なぜその順なのかは、書いていない。


 その次の年も。


 その次の年も。


 何十年ぶん、一度も。


 最初の年の綴じは、字が多かった。


 次の年から、行が減っている。


 書くのを、やめたのではない。


 書き方を、変えたのだ。


 誰が読んでも同じに読める行だけを、残した。


 ――読まれても、困らない行だわ。


 筆跡が乱れている年が、一つだけあった。


 もう、何の年か知っている。


 *


 離宮の応接に、灯が二つ点いていた。


 「これは、お義母さまのものです」


 レティシアは、いちばん古い一冊を机に置いた。


 アデライドは、見なかった。


 「もう、私のものではありません」


 「最初の頁に、お名前がございました」


 「……」


 「二頁目から、ございません」


 沈黙。


 「余白の書き込みも、最初の年だけです」


 レティシアは、続けた。


 「灯の順が、なぜその順なのか。それを書いたのは、一年だけでした」


 アデライドは、答えなかった。


 窓の外には、何もない。


 夜だった。


 「なぜ、おやめになったのですか」


 長い沈黙があった。


 「陛下は」


 やがて、アデライドが言った。


 「私に、政務の話をなさいました」


 「……はい」


 「私が、答えられたからです」


 一拍、あった。


 「答えられなくなった年に、なさらなくなりました」


 温度のない声だった。


 レティシアは、訊かなかった。


 なぜ答えられなくなったのかを。


 訊けば、憐れみになる。


 この人は、憐れみを受け取らない。


 「能力で立つ者は」


 アデライドは、窓を見ていた。


 「能力が落ちた日に、降ろされます」


 「……」


 「血は、落ちません」

 「静けさも、落ちません」


 レティシアは、動かなかった。


 ――ああ。


 王妃に、能力は要りません。

 必要なのは、血と、静けさです。


 あの朝の声が、初めて、別のものに聞こえた。


 否定では、あった。


 この人は、確かに彼女を否定した。


 だが、あの物差しは、あの朝に作られたものではない。


 もっと、前だ。


 問いが、来なくなった部屋で。


 *


 「あなたは、答えられます」


 アデライドが、言った。


 「……はい」


 「今は」


 沈黙。


 「今は、です」


 それは、脅しではなかった。


 脅しなら、もっと温度がある。


 この人は、ただ、知っていることを言っている。


 レティシアは、その言葉の重さを量った。


 あの三年、彼女は能力で立っていた。

 名前を出されないまま、能力だけで立っていた。


 だから、いつでも降ろせた。


 降ろされなかったのは、代わりがいなかったからにすぎない。


 ――同じ場所に、この人は立っていたのだわ。


 ――祈りに、理由を持ち込むものではありません。


 東の回廊で、この人はそう言った。


 叱責だと、思っていた。


 違った。


 理由を持ち込んだ王妃が、どうなるかを知っている人の声だった。


 「エドワードさまは」


 レティシアは、言った。


 アデライドが、初めてこちらを見た。


 「お義母さまの物差しの上でなら」


 「……その先は、結構です」


 丁寧な声だった。


 温度は、無かった。


 レティシアは、口を閉じた。


 アデライドは、しばらく黙っていた。


 灯の芯が、一度、小さく鳴った。


 「あの子は」


 やがて、言った。


 「……静かな子でした」


 それだけだった。


 *


 玄関の間に、アデライドが立っていた。


 見送りは、家人の仕事だ。


 自分でそれをするのは、言うことがあるときだけ。


 この人も、そうなのだと初めて知った。


 「あなた」


 名は、呼ばれなかった。


 「明日、王城へ参ります」


 「……はい」


 「謁見の間を、空けておきなさい」


 衣擦れの音が、遠ざかっていく。


 振り返りは、しなかった。


 ――なぜ、王城へ。


 訊かなかった。


 訊いても、答えないだろう。


 この人は、決めたことしか言わない。


 決めるまでに、どれだけ長く黙るかを、レティシアはもう知っていた。


 馬車の中で、レティシアは膝の上を見ていた。


 組み立てるのに、しばらくかかった。


 能力で立つ者は、降ろされる。

 血と静けさで立つ者は、降ろされない。


 この人は、自分が降ろされたあとに、その物差しを作った。


 ――自分のために、ではない。


 降ろされずに済む場所を、この人は、誰のために作ったのか。


 その上でなら、王になれたはずの子は、誰だったのか。


 ――静かな子。


 レティシアは、目を閉じた。


 名前の無い帳面が、何十年ぶん、膝の上にあった。


 胸の奥が、静かに、重くなった。


 明日、あの人が来る。


 あの朝と、同じ部屋だった。

ありがとうございます。

『能力は要らない』という否定の言葉が、実は「降ろされずに済む場所を、誰かのために作る」設計だった。否定が、反転します。

次は「引くと、約束を破ることになるので」。第一部の、最後の一日です。

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