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「王妃の座を降りろ」と義母に言われましたが、お断りします 〜婚約破棄された悪役令嬢ですが、夫は母より私を選びました〜  作者: リリア・ノワール


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第30話 引くと、約束を破ることになるので

 謁見の間に、朝の光が入っていた。


 人払いは、されていない。

 侍従も、書記も、衛兵も、壁際に控えたままだ。


 あの朝と、同じだった。


 あの朝、この人は人払いをしなかった。


 聞かせるためだった。


 今日も、しなかった。


 ――今日は、何を聞かせるおつもりなのだろう。


 レティシアは、手の中の書類を静かに閉じた。


 王太后アデライド・ヴァンデル。

 先王ヴィルヘルムの妃であり、夫の母。


 この部屋で向かい合うのは、二度目だった。


 違うのは、扉の前で、その人が一度だけ足を止めたことだった。


 「お義母さま」


 レティシアは、その呼び方を選んだ。


 初めて会った日から、一度も変えていない。


 アデライドが、腰を下ろした。


 「あなたは」


 名は、呼ばれない。


 「……なぜ、引かなかったの」


 過去形だった。


 あの廊下では、なぜ引かないの、と訊かれた。


 同じ言葉では、なかった。


 *


 レティシアは、答えを持っていた。


 持ったのは、あの帳面を開いた日だ。


 何十年ぶんの筆跡が並んでいて、どの頁にも名前が無かった。


 書いた人が、そこにいなかった。


 引いた人は、いなくなる。


 彼女も、そうだった。


 三年間、名前を出されないまま、国を回していた。

 いない人だった。


 いなくなった者は、誰の隣にも立っていない。


 ――立っていない者を、対等とは、呼ばない。


 約束だ。


 二人で、そう決めた。


 対等であること。

 守るだけの関係には、しないこと。


 ――引けば、何かを破ることになる。


 あの廊下では、そこまでしか分からなかった。


 何を破るのかが、分からなかった。


 名誉のためでは、ない。

 意地でも、ない。


 この座が欲しいわけでも、ない。


 欲しいものは、何もなかった。


 あの廊下で、彼女はそこまで数えて、止まった。


 数えて残ったものが、答えだと思っていた。


 違った。


 答えは、引いたことのある人の中に、あった。


 引けば、丸く収まる。

 誰も傷つかない。


 彼女は、それが得意だった。


 得意なことを、この座でしてはいけないのだ。


 「お義母さま」


 レティシアは、顔を上げた。


 「引くと、約束を破ることになるので」


 断定だった。


 今度は、驚かなかった。


 謁見の間が、しんと鳴った。


 *


 「……どなたとの」


 「陛下と」


 「何を、お約束に」


 「対等であること、と」


 アデライドは、動かなかった。


 「……それだけのことで」


 「はい」


 「名誉を、捨てて」


 「はい」


 沈黙が、落ちた。


 書記の手が、止まっている。


 ――争ったことは、一度もない。


 この人を、退けようとしたことも。

 黙らせようとしたことも。


 ただ、居続けただけだった。


 「果たしましたか」


 アデライドが、訊いた。


 「王妃の仕事を」


 「……分かりません」


 レティシアは、答えた。


 「まだ、何が仕事なのかを、数えている途中です」


 「そう」


 やがて、アデライドが立ち上がった。


 「あの朝、私は申しました」


 「……はい」


 「王妃の仕事を一つでも果たせたなら、その時は、私が引きましょう、と」


 衣擦れの音が、止まった。


 「――引きましょう」


 衛兵が、顔を上げた。


 レティシアは、答えた。


 「……お断りします」


 空気が、止まった。


 「……理由を、お聞きしても」


 あの朝と、同じ言葉だった。


 あの朝、彼女は答えられなかった。


 「引いてほしいと」


 レティシアは、言った。


 「一度も、申し上げておりません」


 *


 沈黙は、長かった。


 アデライドは、動かなかった。


 やがて、扉のほうへ歩いた。


 衣擦れの音が、遠ざかっていく。


 扉の前で、足が止まった。


 振り返りは、しなかった。


 「……レティシア」


 扉が、閉じた。


 誰も、動かなかった。


 レティシアは、しばらくそこに立っていた。


 胸の奥が、じん、と熱い。


 *


 中庭に、アレクシスが立っていた。


 誰も、いなかった。


 「終わったか」


 「……はい」


 彼は、それ以上訊かなかった。


 訊かないことに、慣れている人だ。


 「母上は」


 一拍、あった。


 その一語の前にだけ、この人は間を置く。


 「離宮へ、お帰りになります」


 「そうか」


 同じ言葉だったが、あの夜と同じ声ではなかった。


 「……名前を」


 レティシアは、言った。


 「呼んで、くださいました」


 アレクシスが、動かなくなった。


 しばらく、何も言わなかった。


 風が、中庭の木を鳴らした。


 「……そうか」


 二度目の、同じ言葉だった。


 声は、もう、同じではなかった。


 「陛下」


 言いかけて、レティシアは口を閉じた。


 辺りに、誰もいない。


 二人きりの時くらい。


 そう言ったのは、この人だ。


 「……アレクシス」


 彼が、こちらを見た。


 「引きませんでした」


 「知っている」


 即答だった。


 レティシアは、笑った。


 断ることは、争うことではなかった。


 この座に留まるために、彼女は誰も打ち負かしていない。

 誰も辱めていない。


 ただ、いなくならなかった。


 それだけを、あの朝から、続けただけだった。


 中庭の木は、あの朝も同じ場所にあった。


 この城で、変わらないものは少ない。


 ――でも、私は、まだここにいる。


 「休め」


 即答だった。


 命令だった。


 この人は、それでしか優しさを渡せない。


 「……はい」


 レティシアは、頷いた。


 断らなかった。


 *


 その夜、机の上に、まだ開けていない封があった。

 アルディナの紋が、押してある。

第一部、最後までお付き合いくださって、本当にありがとうございました。

「引けば、丸く収まる。彼女はそれが得意だった。得意なことを、この座でしてはいけない」――『引かない』の意味が、ここで初めて言葉になります。ただ、いなくならなかった。それだけを続けた三十話でした。

机の上には、まだ開けていないアルディナの紋の封が一つ。次から、隣の国との話が始まります。「開けていない封」。

第一部の帳尻を、ここで一度合わせます。ブックマークと評価は、ここまで数えてくださった一目盛りとして、ありがたく帳面に書き留めます。

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