第28話 借りの返し方
人前で、その人は動かなかった。
控えの間から戻ったアデライドは、元の椅子に座り直した。
背も、手も、視線の高さも、来たときと同じだった。
やがて立ち上がり、主催者へ会釈をして、広間を出ていった。
誰も、それを何かの終わりだとは思わなかった。
王太后が、席を立った。
それだけのことだった。
広間では、誰もその話をしなかった。
知っている者が、いなかった。
第一王子が、自分で降りたと言った。
それは、この国の記録を一行も変えない話だ。
変わったのは、一人の母の中にあるものだけだった。
それを見た者は、いない。
*
レティシアは、慈善会の帳面を持って控えの間へ行った。
今日の分の記入が、まだ残っている。
仕事だった。
仕事以外の用件で、この人の前に立ってはいけない。
それだけは、分かっていた。
控えの間に、アデライドが一人でいた。
窓のほうを向いて、立っていた。
レティシアは、帳面を机に置いた。
「本日の分です」
「……」
「参加者の数と、集まった額を、書き入れます」
アデライドは、振り返らなかった。
レティシアは、羽根ペンを取った。
書いた。
列席した家の名。持ち寄られた品。厨に下げた残りの数。
どれも、明日には誰も読まない行だった。
書いているあいだ、部屋には何の音もしなかった。
「あの子は」
声がした。
レティシアは、手を止めなかった。
「何も、言いませんでした」
「……」
「三年、一度も」
羽根ペンが、紙の上で止まった。
「言わなかったのでは、ありません」
窓のほうを向いたまま、アデライドは続けた。
「……私が、訊かなかったのです」
部屋の空気が、そこで止まった。
三年、この人は憎んでいた。
――お前が来てから、私の長男は王位を失った。
あの朝、この人はそう言った。
その前提が、最初から、無かった。
息子は、自分で降りた。
母は、それを知らなかった。
知らされなかったのでは、ない。
訊かなかったのだ。
訊けば、答えは返ってきた。
いつでも。
この三年の、どの日でも。
アデライドの手が、窓枠にかかっていた。
指が、白かった。
それだけだった。
声も、背も、崩れなかった。
この人は、人前で崩れない人だ。
――ここは、人前では、ないのだわ。
レティシアは、何も言わなかった。
慰める言葉は、持っていた。
持っていたが、使わなかった。
この人は、借りを受け取らない。
憐れみも、借りだ。
だから、ただ、そこにいた。
帳面を開いたまま、羽根ペンを持ったまま。
仕事をしている人の顔で。
どれだけそうしていたか、分からなかった。
「……終わりましたか」
やがて、アデライドが言った。
声は、いつもの温度に戻っていた。
「……はい」
「では、閉じなさい」
レティシアは、帳面を閉じた。
閉じてから、口を開いた。
「一つ、伺っても」
「……」
「慈善会の引き継ぎは、ございませんでした」
「ええ」
「次第も、名簿も、刻限の覚えも。一枚も」
「そうです」
「なぜ、でしょう」
アデライドが、初めて振り返った。
「あなたは、あの議を捨てました」
「……はい」
「私のためでは、ありません」
温度のない声だった。
「あの子のために、捨てた」
レティシアは、答えなかった。
「借りたものは、返さねばなりません」
それだけだった。
それで、全部だった。
*
――ああ。
廊下で、レティシアは帳面を胸に抱えた。
この人は、借りを受け取らない。
受け取らないなら、返すしかない。
返せるものが、一つしか、なかったのだ。
何十年ぶん、誰にも見えないところで積み上げてきたもの。
名前を出したことは、一度もない。
それを、黙って置いていった。
あの日、式部官は動けなかった。
神官長も、何も知らなかった。
誰も、引き継ぎを持っていなかった。
当たり前だった。
誰にも見せなかったものを、誰かに渡せるはずがない。
渡せないものは、置いていくしかない。
礼も、断りも、言い置きもなく。
置いていって、離宮の灯を消した。
それが、この人の返し方だった。
――この人は、引いたのだわ。
誰にも、見えないように。
*
王妃宮に、ハルヴァートが来ていた。
アルセインの商務使節が、通商の話を一つもせずに座っている。
「私信を、お預かりしました」
彼は、封を机に置いた。
「アルディナの、カイル・ヴァルハルト卿から」
レティシアは、その名を見た。
『いずれ、国境は越えるでしょう』
『また声をかけます』
そう言って帰っていった人がいた。
言葉どおりの人だった、と思った。
「王妃陛下に、お会いしたいと」
「……ご用向きは」
「伺っておりません」
ハルヴァートは、少しだけ笑った。
「私は、封を運んだだけです。中身を知らぬ使いのほうが、あの方には都合がよろしいのでしょう」
「……お返事は、少し、お待ちいただけますか」
「急ぐ話ではない、と伺っております」
彼は、頷いた。
「卿は、待つのが上手な方です」
封は、開けなかった。
今日は、開ける日ではなかった。
*
その夜、離宮の灯が、点いていた。
あの議の日から、ずっと消えていた灯だ。
レティシアは、遠くからそれを見ていた。
消えるまで、そこにいるつもりだった。
肩に、上着が掛かった。
振り返らなかった。
振り返れば、この人は下がってしまう。
衣擦れの音がして、気配が、隣に落ち着いた。
並んでは、いない。
一つ分、空けてある。
何も、言わなかった。
言わないまま、同じ灯を見ていた。
――まだ、何も分かっていない。
なぜ、あの人があの物差しを持つのか。
王妃に、能力は要りません。
必要なのは、血と、静けさです。
人を切らない人が、なぜ、そう言うのか。
その物差しが、何を守るために作られたのか。
灯は、消えなかった。
朝まで、点いていた。
「渡せないものは、置いていくしかない。それが、この人の返し方」。借りを受け取らない人の、唯一の返済法を書きました。
人前では崩しません。制裁もありません。二人きりの控えの間で、それだけが起こります。
そしてこの日、机の上に封が一つ置かれます。アルディナのカイル・ヴァルハルト卿から、王妃陛下へ。
次は「物差しのできた日」。あの『血と静けさ』の物差しが、いつ生まれたのかに辿り着きます。




