第27話 私が、辞退したのです
朝から、風がなかった。
卓は、名前のない帳面のとおりに並んだ。
寄進の受付。目録の照合。神殿への引き渡し。
どの手順にも、書いた人の名前がない。
書いてあるとおりにやれば、回った。
回っているあいだ、誰も、王妃の顔を見なかった。
それで、よかった。
*
アデライドは、来た。
招いたのは、レティシアだった。
返事は、なかった。
返事がないまま、その人は、いちばん奥の椅子にいた。
誰にも、案内をさせずに。
昼を過ぎて、車寄せに馬車が着いた。
広間の音が、変わった。
声が減ったのではない。
声の向きが、揃った。
エドワード・ヴァンデル。
王家の一員として、列席する。
招待の綴じには、そう書いてある。
*
「王妃陛下」
礼は、正しかった。
正しすぎて、誰も声をかけられなかった。
「お越しくださって」
「招かれましたので」
短かった。
昔、この人の言葉は、短くなかった。
エドワードは、懐から封を出した。
「一行、書いてありました」
「……はい」
「それで、参りました」
封には、開かれた形跡があった。
何度も、開かれた形跡が。
一行は、短かった。
『お義母さまは、まだ、私が奪ったと思っておいでです』
書いたのは、自分だ。
書いてから、消さなかった。
*
アデライドが、立った。
誰も、気づかなかった。
この人は、いつもそうだ。気づかれずに来て、気づかれずに出る。
エドワードが、目で追った。
それから、歩き出した。
レティシアは、目録を置いた。
主催は、客を見送る。
見送りの体をして、彼女は同じ扉を出た。
控えの間は、暗かった。
人払いは、要らなかった。
この扉の向こうに、用のある者がいない。
「母上」
アデライドは、振り返らなかった。
「お帰りください」
温度が、なかった。
「ここは、もう、来る場所ではありません」
「はい」
エドワードは、頷いた。
「では、一つだけ申し上げて、帰ります」
レティシアは、扉の内側にいた。
出るべきだった。
「王妃陛下」
エドワードが、こちらを見ずに言った。
「いてください。……証しが、要りますので」
レティシアは、扉を閉めた。
アデライドは、窓のほうを向いていた。
庭の見える窓ではない。
壁に近い、細い窓だった。
「あの年」
エドワードは、母の背中に言った。
「私が、辞退したのです」
庭のほうで、風が鳴った。
アデライドは、動かなかった。
「父上に、願い出ました。継がない、と」
「……」
「聞き届けられました。それだけです」
それだけ、と彼は言った。
その一言は、どこにも書かれていない。
「記録には」
アデライドが、口を開いた。
いつもの声だった。
「そのようなことは、ございません」
「辞退は、記録に残りません」
エドワードは、静かに言った。
「残るのは、推挙が止まったことだけです」
レティシアは、あの一行を思い出した。
推挙の欄の、空白。
罷免ではない。解任でも、ない。
――こちらから、動かしたのではございません。
――では、どちらから。
答えは、この部屋に立っていた。
「母上は、ご存じない」
エドワードは、そう言った。
責める声では、なかった。
「言わなかったのは、私です」
「……なぜ」
その問いを、レティシアは一度、向けられたことがある。
声の揺れまで、同じだった。
「母上が集めてくださった方々の名を、全部、覚えておりましたので」
軍務府の、若い将校。
外務府の、語学の立つ書記官。
財務府の、主計官。
何年もかけて、一人ずつ。
府から府へ話を通し、借りを作りながら。
長男のために。
あの綴じの厚さを、レティシアは覚えている。
王妃宮の帳面の、三倍。
一人ずつ、名前で。
「申し上げれば、母上は、私をお止めになりました」
エドワードは、それだけ言った。
「止められれば、私は、継いでいたでしょう」
アデライドは、動かなかった。
背中も、肩も、指先も。
この人は、人のいるところで崩れない。
レティシアは、それを知っていた。
知っていたから、この部屋を選んだ。
「王妃陛下は、何もしておられません」
エドワードは、最後にそう言った。
「あの年、動いたのは、私だけです」
アデライドは、答えなかった。
答えないことに、この人は慣れている。
だから、今日も答えなかった。
やがて、扉へ歩いた。
通りしなに、レティシアの横を過ぎた。
何も、言わなかった。
衣擦れの音が、遠ざかっていく。
足音は、乱れなかった。
*
三年、この人は憎んでいた。
憎む理由は、初めから、なかった。
なかったものを、三年。
胸の奥が、静かに沈んだ。
広間に戻ると、目録の照合は終わりかけていた。
誰も、控えの間のことを知らない。
書いてあるとおりに、回っていた。
留飲は、どこにもなかった。
この日、誰かが報われることは、起こらなかった。
下働きの娘が、目録の最後の一行を読み上げていた。
書いてあるとおりに、読んでいた。
回っているあいだに、三年が、終わっていた。
車寄せで、エドワードが一度だけ足を止めた。
「王妃陛下」
「……はい」
「礼を申し上げるべきかどうか、迷いました」
「……」
「やめておきます」
馬車が、出た。
レティシアは、見えなくなるまで見ていた。
その夜、離宮の灯が点いた。
ありがとうございます。
母もまた、名前を出さずに人を集めた人でした。長男のために、府から府へ、一人ずつ名前で。同じ物差しを、逆側から握っていた人です。
次は「借りの返し方」。渡せないものを、どう返すか。二人きりの話です。




