第26話 二度きり
昨日、役の一覧が掲示された。
そこに、この人の名はなかった。
誰も、名を消していない。
中身で振れば、そうなっただけだ。
*
回廊で、その人とすれ違った。
前に同じ場所ですれ違ったとき、この人は王太后宮からの帰りだった。
今日は、供がいなかった。
付き従う者は、席のあるところにしか付かない。
「まあ、王妃さま」
温度は、あの日と同じだった。
落ちては、いなかった。
「外れましたわ」
ベアトリスは、先に言った。
レティシアは、答えなかった。
言葉が、なかったのではない。
持っている言葉のどれを出しても、勝った側の音がした。
「お慰めくださいませんの」
「……はい」
「まあ」
扇は、開かなかった。
持ってはいた。指の中に、閉じたままあった。
「二度目ですのよ」
レティシアの足が、止まった。
「わたくしが外したのは、二度きりですわ」
*
「……一度目は」
訊いてから、答えを知っていることに気づいた。
「第一王子さまが、王におなりになると申し上げましたの」
あっさりとした声だった。
恥じては、いなかった。
「読みは、正しゅうございましたのよ。あの方がお決めになるまでは」
風が、回廊を抜けた。
「あの方」
「第一王子さまですわ」
扇の先が、床のほうを向いた。
「あの方は、外れたのではございません。ご自分から、お降りになったのですもの」
レティシアは、動かなかった。
人事局の綴じが、頭に浮かんだ。
推挙の欄が、空白になった、あの年。
――こちらから、動かしたのではございません。
――では、どちらから。
老官吏は、答えなかった。
答えられる立場に、いなかったのだ。
答えを持っていたのは、この人だった。
「いつ、お知りになったのですか」
「決まった、その翌日ですわ」
ベアトリスは、少し首をかしげた。
「わたくしの商売は、決まったことを、誰よりも早く知ることですもの」
「では、なぜ」
レティシアの声が、わずかに早くなった。
「訂正を、なさらなかったのですか」
「いたしませんでしたわ」
夫人は、初めて笑わなかった。
「訂正すれば、訊かれますでしょう。なぜご存じなのですか、と」
それだけだった。
わたくしが外したことにしておけば、誰も、何も訊かない。
外れない人が、一度だけ、外れたことにした。
外れたことにして、席を守った。
「そのあとは」
「……そのあと」
「三年、どうなさっていたのですか」
ベアトリスは、少し考えるふうをした。
考えることが、要ったのだ。
「忘れておりましたわ」
「……お忘れに」
「ええ」
夫人は、扇をようやく開いた。
「思い出す用が、ございませんでしたもの」
*
胸の奥が、熱を持った。
あの日、白紙の頁を見たときと、同じ熱だった。
あのときは、言葉が途中で止まった。
今日は、止まらなかった。
――怒っているのだわ。
使い慣れない言葉だった。
それでも、ほかに当てはまるものが、なかった。
お義母さまは、三年、憎んでいる。
息子の王位を奪った女がいると、信じている。
その三年は、この人が一言そうではないと言えば、消えていた。
言わなかった。
言うほどのことでは、なかったからだ。
――あの方は、王妃陛下が何をなさろうと、どうでもよいのです。
ロイドは、そう言った。
どうでもよい、の底が、いま見えた。
この人は、王妃を憎んでいない。
お義母さまを、憎んでもいない。
憎むには、その人のことを考えなければならない。
考えるほどの用が、なかった。
三年ぶんの憎しみが、その用のなさの陰に、まるごと入っていた。
「エッシェン侯爵夫人」
レティシアは、言った。
「それを、お義母さまに申し上げていただけますか」
「わたくし、何も存じませんわ」
即答だった。
「証しになるものが、何一つございませんもの。……お困りになるのは、王妃さまですわよ」
本当のことだった。
この人は、いつも本当のことしか言わない。
*
ベアトリスは、歩き出した。
言えることが、あった。
この人が来季どこに座るか、その席が次にどう動くか、レティシアはもう読めていた。
言えば、当たる。
当たれば、この人と同じになる。
レティシアは、口を開かなかった。
「王妃さま」
ベアトリスは、足を止めなかった。
「お強いのね」
四度目だった。
もう、笑ってはいなかった。
衣擦れの音が、遠ざかっていった。
振り返りは、しなかった。
*
王妃宮の机に、慈善会の綴じがあった。
机の脇の椅子は、あの夜から動かしていない。
誰も座らない日のほうが、多い。
それでも、下げなかった。
下げれば、来ない日を数えるようになる。
数えないことにした。
招待の名は、こちらで決められる。
引き受けたのは、自分だ。
レティシアは、羽根ペンを取った。
書き足す名は、一つだった。
『第一王子エドワード・ヴァンデル殿下』
エマが、手を止めた。
「……お書きに、なりますか」
「はい」
エマは、それ以上訊かなかった。
訊かない代わりに、封蝋を出した。
「お一つ、伺っても」
「はい」
「レティシア様は、あの方に、お会いになりたいのですか」
「……いいえ」
会いたくは、なかった。
それでも、名を書いた。
――私のためではない。
名誉は、捨てた。
捨てたものを、拾いに行くのではない。
あの人は、私の名を、一度も呼ばない。
三年、憎んでいる。
その三年が、初めから成り立っていないのなら。
誰かが、あの人に言わなければならない。
言えるのは、一人だけだった。
レティシアは、余白に一行だけ書き足した。
消さずに、封をした。
使いは、その日のうちに出た。
憎むには、相手を考えねばならない。考えるほどの用がなかった――三年の憎しみが、実は『用のなさ』の陰に入っていた、という底の話です。
ここでレティシアが初めて怒ります。それでも、罰しません。招待状の余白に一行だけ書いて、封をします。
次は「私が、辞退したのです」。ずっと語られなかった王位の一件が、兄エドワードの口から明かされます。
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