第25話 外れた人
「広間の外で、名前が一つ、回っております」
エマが、小声で言った。
「品を集める役は、あちらのお家に決まるそうです、と」
「……どなたが」
「皆さま、です」
誰も、決めていない。
誰も、命じていない。
それでも、名前は回った。
「合理的です」
ロイドが、紙束を机に置いた。
「あの方は、一度おっしゃった。あとは、皆さまがお運びになる」
「……運ぶ」
「はい。声は、足を持ちません。運ぶのは、聞いた者です」
彼は、束の角を揃えた。
「今年も、運ばれました。いつも通りに」
レティシアは、紙束を引き寄せた。
数え終わったものが、そこにある。
毛織の反物が、いくつ。樽が、いくつ。靴が、いくつ。
どの家が、どれだけ。
書いてある通りだった。
*
十二家の婦人が、揃っていた。
誰も、欠けていない。
――全員、おいでになったのだわ。
この広間では、欠けることが答えになる。
今日、誰も答えたくなかったのだ。
ベアトリスは、中ほどの列にいた。
扇は、閉じていた。
「読み上げます」
式部官が、紙を持った。
声が、少しだけ硬かった。
前例のないものを読む声だった。
「品を集める役」
式部官は、家の名を読んだ。
東庭の茶会に出て、席を一つ下げた家だった。
広間の音が、消えた。
回っていた名前では、なかった。
誰も、ベアトリスを見なかった。
見ないことが、答えだった。
式部官は、続けた。
「数える役。配る順を組む役。門で受ける役」
三つとも、読み上げられた。
どれも、やった家の名前だった。
回っていた名前は、一つも読まれなかった。
その家の婦人が、扇を膝に置いた。
顔色は、変わらなかった。
この人も、責められてはいない。
三日、動かなかっただけだ。
動かなくてよい、と聞いていたのだ。
聞かせたのが誰かを、この広間の全員が知っていた。
誰も、そちらを見なかった。
レティシアは、何も言わなかった。
言うことが、なかった。
数えた通りに、決まっただけだ。
式部官が、紙を下ろした。
「……帳面には、いかがいたしましょう」
「お名前を、お書きください」
レティシアは、言った。
「四つ、全部」
式部官は、一礼した。
何十年ぶりに、あの帳面に名前が入る。
それだけのことだった。
広間の端で、若い当主の家の婦人が、立っていた。
名を読まれたとき、座らなかった人だ。
座り方が、分からなかったのだと思う。
自分の家の名が、王家の紙の上で読まれたことのない家だった。
胸の奥が、じん、と鳴った。
*
茶が、出た。
いつもの通りに、見えた。
ベアトリスが、婦人の名を呼んだ。
いつもの声だった。
呼ばれた婦人が、答えた。
半拍、遅れた。
それだけだった。
夫人は、もう一人の名を呼んだ。
その婦人は、隣の者と話していた。
話が、終わらなかった。
扇の音が、少なかった。
この広間で、扇は返事の代わりだ。
開く。閉じる。止める。
誰も、それを使わなかった。
ベアトリスは、三人目の名を呼ばなかった。
呼べば、返る保証が要る。
保証のない場所には、この人は立たない。
立たないために、黙った。
黙ったのは、この広間で、この人が初めてだった。
やがて、一人の婦人が、別の婦人の名を呼んだ。
ベアトリスでは、なかった。
答えが、返った。
遅れなかった。
順番が、変わっていた。
レティシアは、茶碗を置いた。
――誰も、決めていない。
この広間の全員が、決めた。
あの日、この人が広間でやったことと、同じだった。
同じことが、逆を向いただけだ。
*
誰も、この人を責めていない。
誰も、この人を笑っていない。
罰も、なかった。
――何も、していない。
品を数えた。数えた通りに、書いた。
それだけのことだった。
席が、一つ動いた。
それだけのことのために、この人は、外さずに来たのだ。
外さないために、決まったことだけを口にしてきた。
決まっていないものが一つあれば、それで足りた。
誰も、そんなものを用意しようとは思わなかった。
用意する場所が、無かったからだ。
落ちていた仕事を拾ったら、そこにあった。
拾ったのは、誰も持っていなかったからだ。
持っていない人が、一人いた。
その人は、いま、離宮にいる。
胸の奥が、静かに冷えた。
冷えたところに、熱は乗らなかった。
*
婦人たちが、帰っていった。
ベアトリスは、その間にいた。
いちばん前でも、いちばん後ろでもない。
真ん中だった。
誰も、それに気づかなかった。
気づかれないことが、いちばん深いところだった。
この人は、いなくならない。
明日も、この広間にいる。
来季も、十二家の一つとして、名を呼ばれる。
ただ、呼ばれる順が、一つ後ろになる。
それだけのことが、この人には、全部だった。
扉の前で、ベアトリスが足を止めた。
振り返らなかった。
扇が、開いた。
開いたまま、動かなかった。
「王妃さま」
声が、した。
温度が、なかった。
この人の声から、それが消えたのを、レティシアは初めて聞いた。
温度は、仮面だったのだ。
仮面を外す相手は、もう、この広間にいない。
ベアトリスは、しばらくそのままだった。
やがて、扇を閉じた。
「……いえ」
それだけだった。
衣擦れの音が、扉の向こうへ出ていった。
広間には、まだ人がいた。
この人は、人のいるところで言わない。
――言いかけたものが、ある。
レティシアは、扇の閉じる音を思い返していた。
あの音は、答えを持っている人の音だった。
ありがとうございます。
「温度は、仮面だったのだ。仮面を外す相手は、もうこの広間にいない」。勝ち負けではなく、静かに席が動く。その音だけを書きました。
次は「二度きり」。外したのは二度きり、というベアトリス自身の告白です。




