第24話 初めて、手を出した
「妙な言葉が、回っております」
エマが、朝の水を置きながら言った。
「侯爵夫人の、ことです」
「……どのような」
エマは、少し迷った。
迷ってから、そのまま言った。
「あの方は、もうご存じないのでは、と」
レティシアは、書類から目を上げた。
「どなたが、おっしゃったのでしょう」
「分かりません」
エマは、盆を胸に抱えた。
「どなたも、おっしゃっておりません。……ただ、回っております」
――同じだわ。
誰も決めていない。誰も命じていない。
それでも、席が動く。
この人が、ずっとそうしてきたやり方だった。
やっているのは、誰でもない。
やっているのは、社交界ぜんぶだ。
*
午前に、一人の婦人が来た。
約束は、あった。
「品のこと、伺ってもよろしいでしょうか」
「はい」
「……どこまで集めれば、よろしいのでしょう」
同じ問いだった。
三家が訊いたのと、同じ問いだ。
「集めた分だけです」
「はい」
婦人は、それきり黙った。
黙ったまま、帰らなかった。
「以前でしたら」
やがて、婦人は言った。
「……エッシェン侯爵夫人に、伺っておりました」
レティシアは、羽根ペンを置いた。
「あの方は、いつも先にご存じでしたの」
「はい」
「今年は、何もおっしゃいません」
婦人は、扇を膝に置いた。
「ですから、こちらへ参りました」
――順番が、変わっている。
レティシアは、そう思った。
思っただけだった。
訊かれたことに、答えただけだ。
*
昼過ぎに、来客があった。
「エッシェン侯爵夫人が、お見えです」
約束は、なかった。
「……お通しして」
ベアトリスは、一人で入ってきた。
供も、連れていない。
「まあ、王妃さま」
声の温度は、同じだった。
同じであることに、力が要っている。
それが、分かる声だった。
「お忙しいところを」
「いいえ」
夫人は、椅子に座らなかった。
立ったまま、扇を開いた。
「品を集める役のこと」
「……はい」
「あちらのお家が、相応しゅうございましょう」
夫人は、家の名を言った。
はっきりと、言った。
レティシアは、その名を聞いた。
三日で、いちばん少なかった家だった。
「……まだ、決まっておりません」
扇が、止まった。
「まあ」
「三日、皆さまに動いていただきました。数えている途中です」
「……存じ上げませんでしたわ」
夫人は、笑った。
笑ったまま、扇を閉じなかった。
「王妃さま」
温度が、少しだけ上がった。
「あちらのお家は、代々、この役でしたのよ」
「……そうですか」
「ご存じない、とおっしゃるのね」
「はい」
レティシアは、帳面に指を置いた。
「どの頁にも、書かれておりません」
夫人は、答えなかった。
答えるところが、なかったのだ。
書かなかった人が、いた。
書かなかったから、代々が残らなかった。
残っていないことに、いま初めて、誰かが困っている。
「では、いつお決めになりますの」
初めてだった。
この人が、レティシアに何かを訊いたのは。
「集め終わった後です」
「……それは、いつでしょう」
「終わってみないと、分かりません」
夫人の扇が、動かなかった。
開いたまま、止まっていた。
ベアトリスは、それきり何も言わなかった。
一礼して、出ていった。
入ってきたときと、同じ足どりだった。
少しだけ、速かった。
*
「あの方が、この宮へおいでになったのは、初めてです」
ロイドは、来客の綴じを閉じた。
「一度も、ございません」
「……そうですか」
「合理的では、ありません」
彼は、机の端に指を置いた。
「あの方は、呼ばれて動く方ではありません。呼ばずに、動かす方です」
「はい」
「自分から来れば、来たことが残ります」
ロイドは、綴じを積み直した。
「言いに来た、ということが残ります」
「残ると、どうなりますか」
「求めた、ということになります」
彼は、綴じの角を揃えた。
「求めた者は、断られる場所に立ちます。あの方は、そこに立ったことがありません」
「……私は、断りませんでした」
「はい」
ロイドは、綴じを胸に抱えた。
「断られるより、悪うございます」
「……なぜでしょう」
「断られれば、負けたことになります。負けた者には、次があります」
彼は、扉に手をかけた。
「まだ決まっていない、と申し上げた。あれは、勝ち負けの外です」
レティシアは、羽根ペンを置いた。
――損をしない場所にしか、立たない人だ。
そう読んだのは、いつだったか。
読んで、どこにも使えていなかった。
あの人は今日、損をする場所に立った。
立たせたのは、誰だろう。
レティシアは、しばらく考えた。
答えは、出なかった。
私は、何もしていない。
役を、実務で振っただけだ。
振り方の記録が無かったから、そうするしかなかった。
それだけのことが、あの人には、立っていられない場所になる。
*
夜、机に紙が積んであった。
毛織の反物。塩漬けの樽。子ども用の靴。
下働きの娘の字が、いちばん上にあった。
書き足す行は、まだ増えていた。
レティシアは、いちばん上の一枚を取った。
数えることが、残っている。
机の端に、茶が置いてあった。
頼んでいない。
冷めていた。
置かれてから、だいぶ経っている。
「エマ」
「はい」
「これは」
「……頼まれましたので」
エマは、それだけ言って下がった。
誰に、とは言わなかった。
訊けば言うだろう。
訊かなければ、言わない人だった。
レティシアは、それを持った。
冷めたものを、飲んだ。
窓の外に、離宮の方角が見えた。
灯は、点いていなかった。
あの人が手を引いてから、一度も点いていない。
胸の奥に、何も残らなかった。
「求めた者は、断られる場所に立つ」。損をしない場所にしか立たない人を、どうやって勝ち負けの外へ出すか。ロイドの言葉を、ぜひ。
次は「外れた人」。誰も罰していないのに、席が一つだけ後ろへ動きます。この物語のざまぁは、その一つぶんです。
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