第23話 まだ、決まっていません
「前例が、ございません」
式部官は、そう言った。
困った顔では、なかった。
本当に、無いのだ。
慈善会の帳面は、机の上に開いてあった。
何十年ぶんの、同じ筆跡が並んでいる。
品の数。配る順。刻限。その日の天気。
全部、書いてある。
誰がやったかだけが、書かれていない。
「王太后さまは、どなたに、何をお任せでしたか」
「……お任せに、なりませんでした」
式部官は、頁の端を見ていた。
「全部、お一人で」
「どなたかが、お手伝いになったことは」
「先の御代に、幾人か」
彼は、少し考えた。
「……お名前は、存じません」
「帳面には」
「ございません」
一人でやる人は、振らない。
振らなければ、振り方は残らない。
レティシアは、頁をめくった。
――記録が、失われたのではないのだわ。
最初から、無いのだ。
式部官は、まだ立っていた。
「王妃さま。前例のないことは、誰の落ち度にもなりません」
彼は、一礼した。
「代わりに、誰の手柄にも、なりません」
*
十二家の婦人が、王妃宮の広間に集まった。
招いたのは、レティシアだった。
ベアトリスは、中ほどの列にいた。
扇は、膝の上で閉じている。
「今年の慈善会の役を、決めます」
誰も、動かなかった。
――聞きに来たのだわ。
決まっているものを、聞きに。
「品を集める役。数える役。配る順を組む役。当日、門で受ける役」
レティシアは、一つずつ言った。
「四つ、ございます」
「家格の順に、ということでしたら」
誰かが、言いかけた。
「いいえ」
広間の音が、薄くなった。
「家格は、伺いません」
レティシアは、帳面に指を置いた。
「前例も、ございません。この帳面の、どの頁にも」
誰かが、息を吸った。
「では、何でお決めになりますの」
「三日、動いてみていただきます」
レティシアは、顔を上げた。
「どなたが、どれだけ集められたか。それだけを、見ます」
「……それで」
「はい。やってみた後に、決まります」
広間が、静かになった。
静かになり方が、いつもと違っていた。
この人たちは、決まったことを聞く場に慣れている。
決まっていないことを聞かされるのは、初めてだった。
「終わりましたら、帳面に書きます」
レティシアは、帳面を閉じた。
「どなたが、何をなさったか」
誰かの扇が、開いた。
閉じるのを、忘れていた。
この帳面には、誰の名前もない。
何十年、一つもない。
今年から、書く。それだけのことだった。
中ほどの列で、扇が一つ、開いた。
ベアトリスが、口を開きかけた。
その形のまま、止まった。
レティシアは、それを見た。
見て、次の頁を開いた。
訊くことが、まだ三つ残っていた。
*
三日は、静かではなかった。
王妃宮に、荷が届いた。
毛織の反物。塩漬けの樽。子ども用の靴。
どこから来たかを、下働きの娘が紙に書き足していく。
字が、追いつかなくなっていた。
「妙でございます」
エマが、紙束を抱えて言った。
「いちばん多いのが、いちばん下の家です」
レティシアは、紙を受け取った。
東庭の茶会に出て、席を一つ下げた家だった。
次は初めからお受けします、と書いてよこした、あの若い当主の家だ。
「……集められる家が、集めたのですね」
「はい」
エマは、少し黙った。
「あの家には、貸しがございません。誰にも」
貸しがないから、借りを返させることもできない。
できないから、自分の足で歩いた。
レティシアは、紙の端を揃えた。
胸の奥が、じん、と鳴った。
*
「よく、あれをおやりになりました」
マルグリット夫人が、書付を揃えながら言った。
「何か、間違えましたでしょうか」
「いいえ」
夫人は、顔を上げなかった。
「王妃が、決めない、とおっしゃった。……あれは、なかなかできません」
「決めないのでは、ございません」
レティシアは、言った。
「まだ、決まっていないだけです」
夫人の手が、一度だけ止まった。
「……はい」
それから、書付を机に置いた。
「王妃とは、完成するものではありません」
いつか、聞いた言葉だった。
「慈善会も、同じでございます」
*
「三家から、問い合わせが参りました」
夜、ロイドが言った。
「品は、どこまで集めればよろしいのですか、と」
「お答えは」
「集めた分だけです、と申し上げました」
彼は、書付を机に置いた。
「そう申し上げると、皆さま、黙られます」
「……なぜでしょう」
「答えが、無いからです」
ロイドは、書付の角を指で押さえた。
「決まっていないことを、皆さま、初めてお聞きになった」
レティシアは、羽根ペンを取った。
数えなければならない。
誰が、何を、いくつ。
それだけのことに、三日かかる。
「もう一つ、ございます」
ロイドは、扉の前で足を止めた。
「エッシェン侯爵夫人が、今年は何もおっしゃいません」
「……何を、でしょう」
「何も、です」
彼は、扉に手をかけた。
「あの方は、いつも先に何かをおっしゃっている方です。今年は、まだ一言も」
「……そうですか」
「婦人方が、それを数えておいでです」
扉が、閉まった。
レティシアは、紙束の上に手を置いた。
毛織の反物が、いくつだったか。
考えることが、それだけあった。
ここまでお付き合いくださって、ありがとうございます。
貸しのない最下位の家が、自分の足で最も多くを集める。「王妃とは、完成するものではありません」――マルグリット夫人のこの言葉が、好きです。
次は「初めて、手を出した」。呼ばずに動かしてきた人が、初めて自ら動きます。
評価は、名前のない仕事に名前をつけるようなものです。よろしければ、一つ。




