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「王妃の座を降りろ」と義母に言われましたが、お断りします 〜婚約破棄された悪役令嬢ですが、夫は母より私を選びました〜  作者: リリア・ノワール


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第22話 名前のない帳面

 扉に、鍵はかかっていなかった。


 押すと、埃が落ちた。


 納戸は、狭かった。


 人が二人立てば、それで終わる広さだ。


 棚が、一つ。


 帳面が、並んでいた。


 背に、年が書いてある。


 いちばん奥のものは、先王の御代のものだった。


 レティシアは、灯を近づけた。


 何十年ぶん、あった。


 灯を掲げると、棚の影が、天井まで伸びた。


 埃は、床にだけ積もっていた。


 棚の縁には、無い。


 ――拭いてある。


 誰も来ない部屋の、誰も見ない棚を、誰かが拭いていた。


 *


 一冊を、抜いた。


 開いて、指が止まった。


 字を、知っていた。


 人事局の綴じで、推挙の欄に何度も並んでいた署名と、同じ字だ。


 ――アデライド・ヴァンデル。


 頁には、こう書いてあった。


 『香 三度に分けて足す 二度目は、堂の音が薄くなったとき』


 『灯を運ぶ者 行きと帰りの道を分ける 同じ廊で会わせない』


 『神官長 合図は半拍早く出させる 遅いと、皆が動けない』


 『卓 柱を避ける 柱の陰に立つ者が出る』


 『器 欠けたものを混ぜる 欠けたものだけを渡さない』


 レティシアは、その一行を、二度読んだ。


 欠けた器を、混ぜる。


 受け取る者が、気づかないためだ。


 レティシアは、頁から目を上げられなかった。


 あの日、堂の中で起きていたことが、全部、ここにある。


 香が切れる前に、誰かが足していた。

 灯を運ぶ者の立ち位置が、一度も重ならなかった。

 神官長の合図は、いつも半拍だけ早かった。


 偶然では、なかった。


 書いてあったのだ。


 何十年も前から。


 頁を、繰った。


 施しの記録があった。


 名前と、額と、その隣に、一行。


 『息子が、戻らなかった 来年は倍に』

 『夫が戻った 来年は要らぬと申し出があった 受けてよい』


 額の隣に、必ず、人が書いてある。


 誰にいくら渡すかは、額では決まっていなかった。


 その家に、去年、何があったかで決まっていた。


 施しでは、ない。


 ――義理の帳簿の、もう一つの形。


 *


 最初の頁に戻り、最後の頁まで繰った。


 一つだけ、無いものがあった。


 どの頁にも、彼女の名前が、ない。


 書いた者の署名が、どこにもない。


 受領の宛名も、報告の相手も、ない。


 王太后宮より、とすら書いていない。


 あるのは、事実だけだ。


 香の量と、人の立ち位置と、誰かの息子が戻らなかったこと。


 この帳面は、読ませるために書かれていない。


 翌年の自分に、渡すために書かれている。


 王妃から、王妃へ。


 伝わらなければ、そこで終わる。


 ――この国は、それで回ってきた。


 回ってきたのでは、ない。


 この人が、回していたのだ。


 胸の奥に、落ちてきたものがあった。


 憐れみでは、なかった。


 自分を憐れんだことが、一度もなかったからだ。


 三年間、レティシアは同じ場所に立っていた。


 名前を出されないまま、城を回していた。


 誰も、それを仕事だとは思っていなかった。


 王妃に能力は要りません、と、この人は言った。


 必要なのは、血と、静けさです、と。


 その物差しを持った人が、何十年、これを書いていた。


 王妃の座を降りろと言った人が、誰にも見せずに。


 ――誰も見ていない仕事は、誰も見ていないままで構いません。


 そう言ったのは、自分だ。


 見られるために、していたのではありませんから、と。


 あの言葉を、この人は、何十年、実行していた。


 言う前に、していた。


 *


 この人は、引いた。


 慈善会から手を引き、離宮の灯を消した。


 引いた人は、どうなるか。


 答えは、この納戸にある。


 誰も、扉を開けない。


 開けたことが、ない。


 壁際に立っていた人がいたことすら、誰も覚えていない。


 引いた人は、いなくなる。


 誰も、悪くない。


 誰かが、隠したのでもない。


 見えないところに立った人は、見えない。


 それだけのことだ。


 ――三年間、私は。


 レティシアは、そこで止まった。


 その先の言葉を、まだ持っていなかった。


 言えなかったのでは、ない。


 形に、なっていなかった。


 *


 もう一度、頁を繰り直した。


 字は、いつも同じだった。


 同じ大きさで、同じ傾きで、同じ間隔で。


 一年だけ、違った。


 字が、傾いている。


 数字が、二度、書き直されていた。


 香の量が、書かれていない頁もあった。


 その年だけだ。


 翌年からは、また、元の字に戻っている。


 レティシアは、背の年を見た。


 覚えていた。


 人事局の綴じで、推挙の欄が空白になった年だ。


 ――外れない人が、一度だけ外れた年でもある。


 三つ目だった。


 推挙の欄が、空白になった年。

 外れない人が、一度だけ外れた年。

 この字が、一度だけ乱れた年。


 三つとも、別のところにあったものだ。


 別のところにあるものが同じ年に並ぶとき、たいてい、真ん中に何かがある。


 ――何が。


 意味は、まだ分からなかった。


 引っかかりだけが、残った。


 納戸を出ると、神官長が待っていた。


 「……どなたが、お書きになったものでしょう」


 「書いた方の名は、どこにもございません」


 レティシアは、帳面を抱えた。


 重かった。


 「では」


 「そういうものだと、思います」


 *


 その夜、レティシアは新しい頁を開いた。


 今年の慈善会を、書き始める。


 香の量。灯の数。運ぶ者の道。


 困ることの一覧を、隣に置いた。


 それを見ながら、一行ずつ、埋めていった。


 分からないところは、空けた。


 空けた行が、まだ多かった。


 それでも、朝までに、頁は一枚埋まった。


 最後の一行を書き終えて、レティシアは羽根ペンを置いた。


 署名の欄は、なかった。


 この帳面には、初めから、無い。


 彼女は、作らなかった。


 欄を作れば、次の王妃が、そこを埋める。


 埋めるために、書くようになる。


 名前は、書かなかった。

ありがとうございます。

署名欄を作れば、埋めるために書くようになる。だから彼女は、自分の帳面に名前を書きませんでした。「渡すために書く」帳面の話です。

次は「まだ、決まっていません」。家格ではなく、動いた実績で役を決めると宣言します。

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