記録保持者
静寂だった。
記憶の海全体が息を呑んでいた。
空を覆う巨大な白い瞳。
その中心から降り立った銀色の存在。
白い神衣。
銀色の髪。
感情のない瞳。
人の形をしている。
だが人間ではない。
その存在が現れた瞬間。
海に漂う無数の記録が凍り付いた。
歴史が停止したかのように。
時間すら動きを止める。
ルナリアは息を呑む。
身体が動かない。
魂そのものが圧倒されていた。
目の前の存在は異質だった。
強いとか弱いとか。
そういう次元ではない。
まるで世界法則そのものが歩いているようだった。
クロノが前へ出る。
赤い瞳が鋭く細まる。
「まさか本当に来るとはな」
銀色の存在は無表情のまま答えた。
「異常確認」
「記録復元進行」
「観測者干渉確認」
機械的な声。
温度がない。
感情がない。
ただ任務だけが存在していた。
「最高位管理者個体」
「管理者アーカイヴ」
その名が告げられた瞬間。
記憶の海が震えた。
ルナリアの表情が変わる。
アーカイヴ。
禁書に書かれていた名前。
世界を編集する存在。
歴史を管理する者。
そして。
シオンが戦った敵。
管理者アーカイヴ。
クロノは苦笑した。
「久しぶりだな」
アーカイヴは反応しない。
「観測者クロノ確認」
「危険度S級」
「削除対象」
空間が軋む。
無数の白い文字列が空中へ浮かび上がった。
見たことのない言語。
世界を書き換える術式。
歴史編集権限。
その全てがルナリアへ向けられる。
クロノは舌打ちした。
「やっぱり目的は彼女か」
アーカイヴの瞳がルナリアを見る。
その視線だけで身体が震える。
「記録保持者確認」
「ルナリア・セレス」
「黒星王記録復元率二十七パーセント」
「危険」
静寂。
そして。
アーカイヴは淡々と告げた。
「修正する」
次の瞬間だった。
無数の白い鎖が出現する。
海を埋め尽くすほどの数。
逃げ場はない。
ルナリアは思わず目を閉じた。
だが。
衝撃は来なかった。
轟音。
激しい爆発音。
目を開く。
クロノが立っていた。
片手を前に出し。
赤い障壁を展開している。
白い鎖は全て弾かれていた。
「ちっ」
珍しくクロノが顔を歪める。
それだけアーカイヴの力が強い。
赤い障壁に亀裂が走る。
一撃だけでだ。
ルナリアは息を呑む。
アーカイヴは一歩前へ出る。
「抵抗確認」
「修正工程を継続」
さらに空間が歪む。
その瞬間。
記憶の海が激しく脈動した。
ドクン。
巨大な鼓動。
世界そのものが鳴ったようだった。
アーカイヴの動きが止まる。
クロノも顔を上げる。
海の中心。
黒い光。
シオンの記録。
忘れられた英雄の記録。
それが眩く輝き始めていた。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
鼓動が強くなる。
ルナリアの胸も同じように脈打つ。
そして。
映像が現れた。
今までで最も鮮明な記憶。
終焉の空。
崩壊する世界。
泣いているルナリア。
その前に立つシオン。
黒星王。
世界を救うため。
全てを失う覚悟を決めた少年。
そして。
彼は笑っていた。
最後まで。
絶望の中でも。
ルナリアへ向かって。
『大丈夫だ』
優しい声。
『必ず未来は残る』
ルナリアの瞳から涙が零れる。
「いや……」
思い出してしまう。
忘れていた記憶を。
失った痛みを。
世界が消した真実を。
アーカイヴの瞳が僅かに揺れた。
「復元率上昇」
「三十五パーセント」
「四十パーセント」
初めて焦りに近い反応が現れる。
クロノは笑った。
「もう止まらない」
アーカイヴがルナリアを見る。
そして。
冷たく宣告した。
「ならば強制修正を実行する」
その瞬間。
記憶の海上空が砕けた。
バキィィィィィィィン!!
巨大な白い門。
世界編集権限。
最終処理術式。
それが発動される。
海が荒れる。
歴史が揺れる。
ルナリアは絶望的な圧力に息を呑む。
だが。
その時だった。
遥か世界の外側。
黒い星。
観測者領域。
シオンが顔を上げた。
胸が熱い。
聞こえる。
ルナリアの声。
感じる。
彼女の記憶が戻り始めている。
シオンの蒼い瞳が輝いた。
黒い光が爆発する。
「待ってろ」
その一言と共に。
黒い星全体が激しく脈動した。
そして。
世界中へ衝撃が走る。
忘れられた英雄が。
ついに帰還への一歩を踏み出そうとしていた。




