白き監視者
バキッ――
乾いた音が響いた。
記憶の海の上空。
誰も存在しないはずの空間に、一筋の亀裂が走る。
ルナリアはまだ気付いていない。
涙を流しながら立ち尽くしていた。
胸の奥では今もシオンの記憶が脈打っている。
月の花畑。
旅の日々。
交わした約束。
そして最後の別れ。
忘れていたはずの全てが戻り始めていた。
「シオン……」
その名前を口にした瞬間。
記憶の海が再び脈動する。
ドクン。
巨大な鼓動。
まるで世界そのものが震えたようだった。
クロノは空を見上げた。
赤い瞳が険しく細まる。
「予想より早いな……」
彼は小さく呟く。
そして。
二本目の亀裂が走った。
バキィッ――
三本。
四本。
五本。
次々と空間が砕け始める。
まるで見えない何かが外側から押し広げているようだった。
ルナリアがようやく異変に気付く。
「何……?」
クロノは答えない。
ただ空を睨み続けている。
そして。
その瞬間だった。
バキィィィィィィィィィン!!
空が砕けた。
記憶の海全体へ轟音が響く。
無数の光が吹き飛ぶ。
波が荒れ狂う。
歴史の記録が空中へ舞い上がる。
そして。
裂けた空の奥から。
巨大な白い瞳が現れた。
ルナリアの呼吸が止まる。
圧倒的だった。
ただ見ているだけなのに。
魂そのものを覗き込まれている感覚。
恐怖。
本能的な恐怖。
人間が見てはいけない存在。
それがそこにいた。
『対象確認』
感情のない声。
冷たい声。
空全体から響いてくる。
『失われた記録への接触を確認』
『黒星王記録復元率上昇』
『危険度上昇』
ルナリアの顔色が変わる。
黒星王。
またその言葉だった。
クロノが一歩前へ出る。
ルナリアを庇うように。
『観測者個体確認』
『クロノ確認』
『危険度SS』
白い瞳がクロノを見下ろす。
その瞬間。
空気が変わった。
ルナリアは気付く。
この二人は初対面ではない。
もっと前から。
遥か昔から。
互いを知っている。
そんな空気があった。
クロノは苦笑する。
「相変わらずだな」
白い瞳は反応しない。
『修正対象を確認』
『記録保持者ルナリア・セレス』
『排除を開始する』
ルナリアの背筋が凍る。
排除。
今。
確かにそう言った。
その瞬間だった。
巨大な瞳の中心が輝く。
白い光。
無数の術式。
世界編集権限。
歴史改変権限。
文明消去権限。
理解不能な情報が空間を埋め尽くす。
クロノの表情が初めて険しくなる。
「下がれ!!」
叫ぶ。
同時に赤い光が爆発した。
ドォォォォォォォォォン!!
巨大な障壁。
時間そのものを固定する観測者の力。
だが。
白い光は止まらない。
激突。
轟音。
海が荒れる。
記録が砕ける。
ルナリアは吹き飛ばされそうになる。
信じられなかった。
クロノは今まで余裕を崩さなかった。
そのクロノが押されている。
白い瞳の圧力はそれほど異常だった。
『抵抗を確認』
『修正工程継続』
冷たい声。
そこに感情はない。
ただ処理だけが存在していた。
クロノは歯を食いしばる。
「本当に壊れたな……」
ルナリアが振り返る。
「壊れた……?」
クロノは白い瞳を睨む。
「昔の管理者は違った」
静かな声。
「世界を守るために存在していた」
海が揺れる。
「だが今の管理者は違う」
赤い瞳が細まる。
「世界を固定することしか考えていない」
「終わらせないためなら何でも消す」
「歴史も」
「記憶も」
「英雄もな」
ルナリアの胸が締め付けられる。
シオン。
だから消された。
だから忘れさせられた。
管理者が。
世界そのものが。
クロノは続ける。
「お前達は怖いんだろ」
白い瞳を見上げる。
「黒星王が」
その瞬間。
白い瞳が揺らいだ。
ほんの僅かに。
それだけで十分だった。
クロノは確信する。
図星だった。
『異常発言を確認』
『黒星王因子を危険認定』
『即時修正を実行』
次の瞬間。
空が開く。
無数の白い鎖。
数百。
数千。
数万。
世界を縫い付ける拘束術式。
その全てがルナリアへ向かう。
「っ!!」
避けられない。
そう思った瞬間。
クロノが前へ出た。
赤い光が爆発する。
轟音。
衝撃波。
記憶の海が激しく揺れる。
だが。
鎖は止まらない。
押し切られる。
ルナリアの瞳が見開かれる。
その時だった。
ドクン――
記憶の海の中心。
黒い光が脈打った。
忘れられた英雄の記録。
シオンの記録。
それが眩く輝き始める。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
海全体が共鳴する。
クロノが息を呑む。
ルナリアも振り返る。
黒い光が膨張していく。
まるで。
何かが目覚めようとしているかのように。
そして。
白い瞳が初めて反応した。
『危険』
『黒星王記録活性化』
『危険』
『危険』
機械音声が乱れる。
その様子を見たクロノは静かに笑った。
「遅い」
そして。
赤い瞳で海の中心を見つめる。
「もう止まらない」
黒い光が爆発する。
忘れられた英雄の記録が。
ついに姿を現そうとしていた。




