失われた記録
記憶の海は静かだった。
どこまでも続く蒼白い水面。
波一つない。
風もない。
だが。
その静寂の奥では無数の記録が流れていた。
人々の人生。
国家の歴史。
文明の興亡。
滅びた世界の残響。
全てが光となり、この海を漂っている。
ルナリアは息を呑んだ。
こんな場所が存在すること自体が信じられなかった。
だが。
胸の奥は知っている。
ここは自分が来るべき場所だった。
ずっと。
ずっと前から。
まるで導かれるように。
クロノは海の中心を見つめていた。
赤い瞳には複雑な感情が浮かんでいる。
「見えるか」
静かな声。
ルナリアが視線を向ける。
海の中心。
そこだけが違っていた。
無数の記録が青白く輝く中。
一つだけ。
黒い光が存在している。
夜空のような黒。
深淵のような黒。
だが。
どこか温かい。
懐かしい。
胸が締め付けられる。
ルナリアは無意識に歩き出していた。
「これは……」
クロノは答える。
「失われた記録だ」
世界が静まる。
ルナリアの鼓動だけが聞こえる。
「失われた……?」
「ああ」
クロノは頷く。
「世界が消した記録」
「管理者が封印した歴史」
「本来なら誰にも見つからないはずだった記録」
ルナリアの胸が痛む。
理由は分からない。
だが。
その光を見ているだけで涙が出そうになる。
まるで。
大切な人の面影を見ているようだった。
「触れてみろ」
クロノが言う。
「君なら辿り着ける」
ルナリアは躊躇した。
怖かった。
知るのが怖い。
思い出すのが怖い。
だが。
ここまで来て引き返せなかった。
ずっと探していた気がする。
失った何かを。
忘れてしまった誰かを。
ゆっくりと手を伸ばす。
そして。
黒い光へ触れた。
その瞬間だった。
世界が反転した。
轟音。
視界が白く染まる。
無数の記憶。
無数の感情。
無数の歴史。
全てが流れ込んでくる。
崩壊した空。
砕ける大地。
燃え盛る都市。
終わりゆく世界。
絶望の戦場。
そして。
その中心に一人の少年がいた。
黒髪。
蒼い瞳。
黒いロングコート。
全身傷だらけだった。
血に染まり。
何度も倒れ。
それでも立ち上がる。
誰かを守るために。
未来を守るために。
ルナリアの胸が締め付けられる。
知らないはずだった。
だが。
知っている。
その背中を。
その瞳を。
その優しさを。
少年が振り返る。
蒼い瞳。
そして。
優しい笑顔。
『大丈夫だ』
その声を聞いた瞬間。
ルナリアの瞳から涙が溢れた。
知っている。
忘れていただけだ。
何度も夢で聞いた。
何度も心の奥で響いていた。
『絶対に守る』
声が震える。
身体が震える。
映像が変わる。
今度は戦場ではない。
月の花畑だった。
満月が夜空を照らしている。
白い花々が風に揺れる。
穏やかな時間。
優しい時間。
そこにはルナリアがいた。
そして。
隣には少年がいた。
シオン。
二人は並んで月を見上げている。
戦いもない。
悲しみもない。
ただ静かな夜。
シオンが笑う。
『平和になったらさ』
ルナリアが振り返る。
『またここに来よう』
その言葉に。
記憶の中のルナリアが微笑む。
『うん』
『約束だよ』
シオンも笑う。
『約束だ』
指切りを交わす。
小さな約束。
だが。
二人にとっては何より大切な約束だった。
ルナリアの涙が止まらない。
思い出したい。
全部。
忘れたくない。
もう二度と。
映像が変わる。
旅の記憶。
笑い合う仲間達。
アリア。
レオニクス。
ガルド。
皆がいる。
その中心にはいつもシオンがいた。
誰かを助け。
誰かを支え。
誰かのために戦う。
そんな背中ばかりだった。
そして。
最後の記憶。
終焉の空。
崩壊する世界。
泣いているルナリア。
その前で。
シオンが立っている。
身体が光になって消え始めていた。
存在そのものが崩れている。
それでも。
彼は最後まで笑っていた。
『ありがとう』
優しい声。
『未来を頼む』
ルナリアの胸が張り裂けそうになる。
その言葉。
その笑顔。
忘れていた。
忘れさせられていた。
世界に。
管理者に。
歴史そのものに。
だが。
魂だけは覚えていた。
ルナリアの唇が震える。
「シ……」
声が漏れる。
涙が溢れる。
「シオン……」
その瞬間。
ドクン――
記憶の海全体が脈動した。
巨大な鼓動。
世界そのものの鼓動。
クロノの表情が変わる。
上空。
見えない空間が軋み始める。
バキッ。
小さな亀裂。
ルナリアはまだ気付かない。
だが。
クロノは知っていた。
管理者が反応したのだ。
失われた記録が復元され始めた。
忘れられた英雄の名前が再び呼ばれた。
世界が最も隠したかった真実へ。
ルナリアが辿り着いてしまった。
クロノは静かに呟く。
「始まったな……」
そして。
上空の亀裂がさらに広がる。




