世界編集者
王都セレスティア地下。
王都の歴史書にも記されていない、誰にも知られることのない石造りの階段を、ルナリアは一人で降り続けていた。
灯りはない。
窓もない。
どれほど歩いたのかも分からない。
時間の感覚さえ曖昧になり、自分が本当に地下を進んでいるのか、それとも別の世界へ足を踏み入れているのかさえ分からなくなっていた。
それでも、不思議と恐怖はなかった。
誰かに導かれている。
そんな感覚だけが、胸の奥で静かに彼女を支えていた。
石段はどこまでも続く。
王都の地下とは思えないほど深く。
まるで世界の底へ降りていくようだった。
やがて。
終わりの見えなかった階段の先に、一つの巨大な扉が姿を現した。
思わず息を呑む。
高さは二十メートルを優に超える。
黒い古代石で造られた巨大な門。
長い年月を経ているはずなのに、崩れた様子は一切なく、圧倒的な威厳だけが静かに漂っていた。
門の表面には、無数の文字が刻まれている。
見たことのない文字。
どの文献にも載っていない古代文字。
それなのに――。
ルナリアは、その意味を自然と理解していた。
まるで昔から知っていた言葉のように。
そこには、こう刻まれていた。
『世界記録保管領域』
『管理者以外立入禁止』
『記憶の海』
「……記憶の海。」
思わずその名を口にする。
禁書にも記されていなかった場所。
歴史から消された言葉。
なのに、その響きは胸の奥深くへ真っ直ぐ届いた。
その瞬間だった。
扉全体が淡い銀色の光を放つ。
まるでルナリアの存在を認識したかのように。
次の瞬間。
ゴゴゴゴゴゴ……
重厚な音を響かせながら、巨大な扉がゆっくりと開き始めた。
長い年月、誰にも開かれることのなかったはずの門。
それはまるで、帰る者を待ち続けていたかのように静かに開いていく。
そして。
扉の向こうに広がる光景を見た瞬間、ルナリアは言葉を失った。
そこには、果てしない海が広がっていた。
地下のはずだった。
それなのに空がある。
夜空がある。
無数の星が瞬き、満月が静かに海面を照らしている。
だが、その世界は現実ではなかった。
空も。
海も。
月も。
星も。
すべてが青白い光で形作られている。
幻想的な粒子が風もない空間を漂い、海は静かに波打っていた。
ルナリアはゆっくりと海辺へ近づく。
波間を覗き込んだ瞬間、思わず息を呑んだ。
光の粒一つ一つに、人の記憶が映っていた。
幼い子供の笑顔。
家族との別れ。
戦場で剣を交える兵士。
恋人と交わした約束。
涙。
喜び。
絶望。
希望。
数え切れない人生。
数え切れない歴史。
この海には、世界で生きたすべての記憶が流れていた。
「ここが……記憶の海……。」
その言葉が静かに波間へ溶けていく。
すると、不意に背後から声が響いた。
「ようこそ。」
静かな少年の声だった。
ルナリアは振り返る。
そこには、一人の少年が立っていた。
白い髪。
深紅の瞳。
年齢は十五歳ほどにしか見えない。
だが、その瞳だけが異様だった。
何百年。
何千年。
あるいは、それ以上の時を見続けてきた者だけが宿す深い静けさが、その眼差しには宿っていた。
ルナリアは自然と身構える。
「あなたは……?」
少年は穏やかに微笑む。
「クロノ。」
短く、それだけを名乗った。
次の瞬間だった。
記憶の海が脈打つ。
ドクン。
巨大な鼓動が空間全体へ響く。
まるで世界そのものが、その名に反応したようだった。
クロノは静かに海を見つめる。
「ここには世界の記憶が保存されている。」
穏やかな声だった。
「人の記憶だけじゃない。」
波間へ視線を向ける。
「国の記憶。」
「文明の記憶。」
「滅びた世界の記憶。」
「世界が存在してきたすべての歴史。」
「全部、この海に眠っている。」
ルナリアは息を呑む。
そんな場所が、本当に存在するというのか。
クロノはゆっくりと振り返る。
赤い瞳がまっすぐルナリアを見つめた。
「そして。」
一拍置いて続ける。
「消された記録も、ここには残っている。」
その言葉を聞いた瞬間、ルナリアの胸が大きく脈打った。
ドクン。
心の奥底が反応する。
忘れていた何かが目を覚まそうとしていた。
「英雄……。」
無意識だった。
言葉が自然と口から零れていた。
クロノは驚かなかった。
最初からそうなることを知っていたように、小さく頷く。
「やっぱり覚えているか。」
「え……?」
「魂がな。」
ルナリアは言葉を失う。
魂。
その一言だけで、胸の奥が熱くなった。
クロノは静かに歩き始める。
海辺まで進むと、一つの光を指差した。
その光だけが異質だった。
他の記憶とは違う。
黒い光。
闇のような色。
それなのに、どこか温かい。
懐かしい光だった。
「触れてみろ。」
ルナリアはためらう。
だが、不思議と恐怖はなかった。
むしろ。
長い間探し続けていたものが、ようやく目の前に現れたような感覚だった。
ゆっくりと手を伸ばす。
指先が光へ触れた、その瞬間。
世界が反転した。
視界が白く染まる。
轟音。
無数の記憶。
無数の歴史。
無数の世界。
あらゆる光景が一瞬で流れ込み、その中心に一人の少年が立っていた。
黒髪。
蒼い瞳。
黒いロングコート。
傷だらけになりながらも、決して前を向くことをやめない姿。
何度倒れても立ち上がる。
誰かを守るために。
未来を守るために。
その背中を見た瞬間。
ルナリアの瞳から涙が溢れ落ちた。
知らない。
知らないはずなのに。
知っている。
誰よりも。
何よりも。
大切な人。
その声が響く。
『大丈夫だ。』
優しく包み込むような声。
『必ず守る。』
どこまでも真っ直ぐな声。
『だから泣くな。』
その言葉とともに、ルナリアの胸が激しく脈打った。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
忘却の霧に覆われていた名前が、少しずつ輪郭を取り戻していく。
世界が消した名前。
歴史から消された英雄。
その存在へ、ルナリアは確実に近づき始めていた。
――しかし。
その様子を見つめる存在があった。
記憶の海の遥か上空。
誰にも見えない高み。
巨大な白い瞳が静かに開く。
管理者。
世界編集者。
最高位監視権限。
感情を持たないその瞳は、まっすぐルナリアを捉えていた。
『異常確認。』
『記録復元確認。』
『記憶継承開始。』
冷たく、機械的な声が空間へ響く。
そして最後の宣告が下される。
『対象を修正する。』
その瞬間。
記憶の海全体が大きく揺れた。
クロノの表情が鋭く変わる。
「来たか……。」
赤い瞳が空を見据える。
その視線の先には、世界を監視する巨大な白い瞳。
クロノは静かに息を吐き、小さく呟いた。
「思ったより早かったな。」
世界は再び動き始める。
忘却と記憶。
管理者と英雄。
そして運命に抗う者たちの、新たな戦いが始まろうとしていた。




