忘却の終わり
王都セレスティアは、静かな夜に包まれていた。
満月が白亜の街並みを優しく照らし、星晶灯の淡い光が石畳に長い影を落としている。
誰もが穏やかな夜を過ごしていた。
誰も知らない。
この夜が、世界の運命を変える境界線になることを。
王立歴史研究院。
最上階の書庫。
ルナリアは禁書を抱きしめたまま、その場から動けずにいた。
胸の鼓動が速い。
呼吸が浅い。
瞳からは止めどなく涙が流れていた。
「どうして……。」
震える声が静寂へ溶けていく。
「どうしてこんなに苦しいの……。」
理由は分からない。
けれど心だけは叫んでいた。
会いたい。
どうしても。
もう一度だけ。
その人に会いたい。
ルナリアは胸へ手を当てる。
鼓動がさらに強くなる。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
そして自然に、その名前が唇から零れ落ちた。
「……シオン。」
その瞬間だった。
世界が脈打った。
ドクン――。
世界樹アストレアの枝葉が大きく揺れる。
ドクン――。
王都地下の封印石碑が蒼白い光を放つ。
ドクン――。
観測者領域の黒い星が静かに共鳴した。
まるで世界そのものが、その名前を待ち続けていたかのように。
忘れていたのは人々だけだった。
歴史だけだった。
記録だけだった。
魂だけは、一度も忘れていなかった。
ルナリアは膝をつく。
「やっぱり……。」
涙が止まらない。
「私は……あなたを知ってる。」
その言葉と同時に、机の上の禁書がひとりでに開いた。
パラリ。
パラリ。
誰も触れていない。
それでもページは意思を持つようにめくられていく。
最後のページで静かに止まる。
白紙だったはずの場所へ、黒い文字が浮かび始めた。
『忘却解除開始』
ルナリアは息を呑む。
「……何?」
さらに文字が増えていく。
『観測者帰還準備』
『黒星王記録復元』
『最終世界固定開始』
意味は理解できない。
けれど、一つだけ確かなことがあった。
世界が動き始めた。
もう誰にも止められないほど、大きく。
その頃――。
世界の外側。
観測者領域。
巨大な赤い瞳が、静かにシオンを見下ろしていた。
その視線だけで世界法則が歪み、空間が軋む。
立っているだけで全身が悲鳴を上げる。
「っ……!」
シオンは歯を食いしばった。
膝が震える。
呼吸が乱れる。
本能が叫ぶ。
逃げろ。
関わるな。
それでも、一歩も退かなかった。
「お前が……。」
蒼い瞳が鋭く光る。
「全部の元凶なんだな。」
赤い瞳は何も答えない。
ただ静かに観測を続けている。
やがて機械のような声が響いた。
『観測対象確認。』
『記録改変を確認。』
『忘却解除を確認。』
『修正処理を開始する。』
次の瞬間。
空間そのものが裂けた。
バキィィィィィン!!
真紅の光柱が放たれる。
存在そのものを削除する一撃。
世界を滅ぼすのではない。
最初から存在しなかったことにする力。
その光がシオンへ迫る。
しかし、その前へ一人の男が静かに歩み出た。
レイだった。
「下がれ、シオン。」
「レイ!」
レイは振り返らない。
ただ右手をゆっくり前へ突き出した。
黒い光が広がる。
轟音と共に、光柱が激突した。
世界が揺れる。
観測者領域全体が震え、黒い星に無数の亀裂が走る。
それでもレイは動かなかった。
一歩も。
赤い瞳を真っ直ぐ見据えたまま、小さく笑う。
「また会ったな。」
巨大な瞳が僅かに揺れる。
『誤差確認。』
『最初の黒星王を確認。』
『理解不能。』
レイは肩を竦めた。
「昔から変わらないな。」
静かな声だった。
「理解できないものは、全部消そうとする。」
シオンはその背中を見つめる。
何万年も戦い続けた英雄。
何万回敗北しても立ち上がった男。
その姿は、自分と重なって見えた。
その時だった。
世界中で異変が起こる。
ヴェリス帝国。
イグニス王国。
ウィンダリア連邦。
アストレア。
あらゆる国で、人々が突然立ち止まった。
「……あれ?」
「今……誰かを思い出したような……。」
「この景色……どこかで……。」
消されていた記憶。
失われた感情。
忘却の奥へ封じられていた欠片が、少しずつ戻り始めていた。
そして王都では。
ルナリアの脳裏へ、一つの光景が鮮明に蘇る。
白い花畑。
満月。
黒髪の少年。
優しい笑顔。
そして、自分へ向かって差し出された手。
『必ず帰る。』
その声を聞いた瞬間、ルナリアは涙を流しながら笑った。
「……うん。」
震える声で答える。
「待ってる。」
「今度は絶対に忘れない。」
「シオン。」
その想いは、銀色の光となって世界を越えた。
観測者領域。
シオンの胸が優しく輝く。
温かい。
懐かしい。
孤独だった三年間を包み込むような光。
シオンは目を閉じ、小さく笑った。
「やっと……届いた。」
迷いは消えていた。
もう一人ではない。
世界が忘れても。
ルナリアだけは、自分を見つけてくれた。
その瞬間、巨大な赤い瞳の奥で何かが蠢く。
初めて明確な敵意が生まれた。
『黒星王危険度上昇。』
『世界固定化を確認。』
『最終処理を開始する。』
世界が大きく震える。
終焉よりも古い災厄が、本格的に動き始めた。
シオンはゆっくり剣を構える。
その瞳には、もう迷いはない。
「待ってろ。」
静かな声だった。
けれど、その言葉には確かな決意が宿っていた。
「今度こそ帰る。」
その宣言と共に、黒い星が蒼黒く輝き始める。
忘れられた英雄は、もう忘れられた存在ではない。
世界は少しずつ思い出し始めている。
失われた絆を。
消された歴史を。
そして――
世界を救うために、自らを犠牲にした一人の英雄のことを。




