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ECLIPSE CHRONICLE ー エクリプス・クロニクル ー  作者: 神宮せいや
ECLIPSE CHRONICLE

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9/63

「失われた名前」

 夜明け前の交易都市ベルクは、まだ静かな眠りの中にあった。


 昼間には商人たちの呼び声と荷馬車の音で賑わう石畳の大通りも、今は青白い朝霧に包まれている。夜露に濡れた街路が淡く光り、遠くの飛空艇発着場だけが静かな灯火を放っていた。


 昨夜の戦いが嘘のような穏やかな朝――。


 しかし、その平穏は長くは続かない。


 シオンたちに残された時間は決して多くなかった。


 エクリプス教団最強暗殺部隊シャドウ


 その隊長であるアリア・ナイトシェイドが姿を現した以上、この街に留まることは死を意味する。


 宿屋の一室。


 窓から差し込む朝の光を背に、ガルドは腕を組んだまま静かに口を開いた。


「ここには、もう居られねぇ。」


 低い一言。


 だが誰一人として反論しなかった。


 シオンも静かに壁にもたれながら尋ねる。


「飛空艇は?」


 ルナリアは机へ地図を広げた。


「朝一番の便があるわ。」


 細い指が地図をなぞる。


「目的地は世界樹都市アストレア。」


 その名を聞き、シオンはゆっくり頷いた。


 世界樹都市アストレア。


 古代文明研究の中心地。


 禁忌文献の保管庫。


 そして月の民に関する記録が最も多く残されている都市。


 ガルドも静かに続ける。


「黒星晶の記録も残ってるかもしれねぇ。」


「今のお前らに必要なのは力じゃない。」


「情報だ。」


 シオンは無意識に右腕へ目を落とす。


 黒星晶の紋章。


 普段は静かに眠っているその刻印は、今も皮膚の奥で微かに脈打っていた。


 星喰いが告げた言葉。


 ――最後の観測者。


 意味は分からない。


 だが、あの声だけは忘れられない。


 まるで、自分が知らない過去から呼ばれているようだった。


 その時だった。


「はいっ!」


 エリナが勢いよく手を挙げる。


 全員の視線が集まった。


 彼女は満面の笑みで宣言する。


「私も行くから!」


「帰れ。」


 シオンが即答した。


「ひどっ!」


「危険だから言ってる。」


「だから行くんじゃん!」


「意味分からん。」


「分かるもん!」


 エリナは頬を膨らませながらも真剣な表情になった。


「見たいの。」


 部屋が静まり返る。


「この世界が本当にどうなってるのか。」


「全部、自分の目で見たい。」


 その瞳に迷いはなかった。


 ただの好奇心ではない。


 真実を知りたいという強い意志。


 ガルドは小さく笑う。


「ウィンドレイ家らしいな。」


 ルナリアも苦笑した。


「賑やかな子ね。」


「えへへ。」


 少しだけ空気が和らぐ。


 絶望ばかりだった旅路に、エリナという存在が小さな光を灯していた。


 その時だった。


 コン。


 窓枠へ黒い鳥が舞い降りる。


 足には小さな筒。


 ガルドの表情が変わった。


「……連絡か。」


 紙を開いた瞬間、彼の眉間に深い皺が刻まれる。


「最悪だ。」


「何だ?」


 シオンが尋ねる。


 ガルドは紙を握り潰した。


「七星将が動いた。」


 空気が一変する。


 ルナリアの顔から血の気が引いた。


「ヴォルグ……?」


「違う。」


 ガルドは静かに首を振る。


「氷晶将。」


「セラフィナ・フロスト。」


 その名を聞いた瞬間、ルナリアの肩が小さく震えた。


 シオンが気付く。


「知ってるのか?」


「……教団最年少の七星将。」


「感情を失った怪物よ。」


 エリナが思わず息を呑む。


 ガルドは窓の外を見つめた。


「ヴォルグにはまだ思想がある。」


「話が通じる相手だ。」


「だが、セラフィナは違う。」


 低く重い声。


「命令だけで動く。」


「街を凍らせろと言われれば、その場で街を消す。」


「人を殺せと言われれば、一瞬の迷いもなく剣を振るう。」


 誰も言葉を返せなかった。


 シオンは静かに拳を握る。


 七星将。


 ヴォルグだけでも規格外だった。


 その怪物があと六人いる。


 しかも次に現れるのは、その中でも最も冷酷な存在。


 旅はさらに危険になる。


 それでも。


 止まる理由にはならなかった。


「急ぐぞ。」


 ガルドが言う。


「飛空艇を逃したら終わりだ。」


 同じ頃――。


 ベルク郊外の森。


 朝霧の中を、アリア・ナイトシェイドは一人歩いていた。


 昨夜の任務。


 結果は失敗。


 シャドウ隊長として許されない失態だった。


 暗殺は成功して初めて意味を持つ。


 失敗した暗殺者に価値はない。


 それは誰よりも自分自身が理解している。


 それでも。


 黒髪の少年の姿だけが頭から離れなかった。


 シオン・アルヴィス。


「……変な奴。」


 また同じ言葉が零れる。


 その時、背後で木々が揺れた。


「珍しいな。」


 低い男の声。


 アリアは振り返らない。


「ヴォルグ。」


 七星将筆頭。


 ヴォルグ・アイゼン。


 彼は静かに立っていた。


「失敗したそうだな。」


 アリアは黙ったまま頷く。


「理由は?」


「分からない。」


 ヴォルグは静かに笑う。


「感情だ。」


「感情?」


「お前が最も不要だと教えられたものだ。」


 アリアは目を伏せた。


 シャドウでは感情を持つことを許されない。


 名前も。


 記憶も。


 過去も。


 必要なのは任務だけ。


 それが彼女の人生だった。


 ヴォルグは空を見上げる。


「昔のお前なら迷わなかった。」


「……。」


「その少年から目を離すな。」


 アリアが顔を上げる。


「いずれ世界を変える。」


 ヴォルグは朝霧の向こうへ歩きながら最後に言った。


「良くも悪くもな。」


 その言葉だけが静かな森に残った。


 アリアは胸の奥を押さえる。


 違和感は消えない。


 むしろ、少しずつ大きくなっていた。


 一方その頃。


 ベルク地下深部。


 誰にも知られていない古代遺跡。


 巨大な装置が静かに目を覚ます。


 青白い光。


 古代文字。


 巨大な結晶。


 その中心には黒星晶の紋章が刻まれていた。


『観測対象確認。』


『適合率上昇。』


『黒星晶同期開始。』


『観測者覚醒予測。』


 誰も聞いていない。


 だが確実に、運命の歯車は回り始めていた。


 そして朝。


 飛空艇発着場。


 巨大な飛空艇がゆっくりと浮上していく。


 シオンは空を見上げた。


「本当に飛んでる……。」


 エリナが笑う。


「だから飛空艇だってば!」


 ルナリアも微笑んだ。


 青空。


 飛空艇。


 仲間たち。


 一瞬だけ普通の旅人のような時間が流れる。


 しかし、その裏では七星将が動き出している。


 星喰いもまた静かに目覚めつつある。


 そして何より――失われた記憶が少しずつ動き始めていた。


 遠く離れた屋上。


 アリアは飛び立つ飛空艇を静かに見つめていた。


「シオン・アルヴィス……。」


 その名を小さく呟く。


「次は……。」


 殺す。


 そう言うはずだった。


 だが言葉は続かない。


 理由は、自分にも分からない。


 飛空艇は青空へと消えていく。


 旅は新たな舞台――世界樹都市アストレアへ。


 そこには黒星晶の真実。


 月の民の歴史。


 そしてシオン自身の運命へ繋がる秘密が待っていた。


 さらにその先では――。


 氷晶将セラフィナ・フロストが、静かに動き始めていることを、まだ誰も知らなかった。

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