「失われた名前」
夜明け前の交易都市ベルクは、まだ静かな眠りの中にあった。
昼間には商人たちの呼び声と荷馬車の音で賑わう石畳の大通りも、今は青白い朝霧に包まれている。夜露に濡れた街路が淡く光り、遠くの飛空艇発着場だけが静かな灯火を放っていた。
昨夜の戦いが嘘のような穏やかな朝――。
しかし、その平穏は長くは続かない。
シオンたちに残された時間は決して多くなかった。
エクリプス教団最強暗殺部隊。
その隊長であるアリア・ナイトシェイドが姿を現した以上、この街に留まることは死を意味する。
宿屋の一室。
窓から差し込む朝の光を背に、ガルドは腕を組んだまま静かに口を開いた。
「ここには、もう居られねぇ。」
低い一言。
だが誰一人として反論しなかった。
シオンも静かに壁にもたれながら尋ねる。
「飛空艇は?」
ルナリアは机へ地図を広げた。
「朝一番の便があるわ。」
細い指が地図をなぞる。
「目的地は世界樹都市アストレア。」
その名を聞き、シオンはゆっくり頷いた。
世界樹都市アストレア。
古代文明研究の中心地。
禁忌文献の保管庫。
そして月の民に関する記録が最も多く残されている都市。
ガルドも静かに続ける。
「黒星晶の記録も残ってるかもしれねぇ。」
「今のお前らに必要なのは力じゃない。」
「情報だ。」
シオンは無意識に右腕へ目を落とす。
黒星晶の紋章。
普段は静かに眠っているその刻印は、今も皮膚の奥で微かに脈打っていた。
星喰いが告げた言葉。
――最後の観測者。
意味は分からない。
だが、あの声だけは忘れられない。
まるで、自分が知らない過去から呼ばれているようだった。
その時だった。
「はいっ!」
エリナが勢いよく手を挙げる。
全員の視線が集まった。
彼女は満面の笑みで宣言する。
「私も行くから!」
「帰れ。」
シオンが即答した。
「ひどっ!」
「危険だから言ってる。」
「だから行くんじゃん!」
「意味分からん。」
「分かるもん!」
エリナは頬を膨らませながらも真剣な表情になった。
「見たいの。」
部屋が静まり返る。
「この世界が本当にどうなってるのか。」
「全部、自分の目で見たい。」
その瞳に迷いはなかった。
ただの好奇心ではない。
真実を知りたいという強い意志。
ガルドは小さく笑う。
「ウィンドレイ家らしいな。」
ルナリアも苦笑した。
「賑やかな子ね。」
「えへへ。」
少しだけ空気が和らぐ。
絶望ばかりだった旅路に、エリナという存在が小さな光を灯していた。
その時だった。
コン。
窓枠へ黒い鳥が舞い降りる。
足には小さな筒。
ガルドの表情が変わった。
「……連絡か。」
紙を開いた瞬間、彼の眉間に深い皺が刻まれる。
「最悪だ。」
「何だ?」
シオンが尋ねる。
ガルドは紙を握り潰した。
「七星将が動いた。」
空気が一変する。
ルナリアの顔から血の気が引いた。
「ヴォルグ……?」
「違う。」
ガルドは静かに首を振る。
「氷晶将。」
「セラフィナ・フロスト。」
その名を聞いた瞬間、ルナリアの肩が小さく震えた。
シオンが気付く。
「知ってるのか?」
「……教団最年少の七星将。」
「感情を失った怪物よ。」
エリナが思わず息を呑む。
ガルドは窓の外を見つめた。
「ヴォルグにはまだ思想がある。」
「話が通じる相手だ。」
「だが、セラフィナは違う。」
低く重い声。
「命令だけで動く。」
「街を凍らせろと言われれば、その場で街を消す。」
「人を殺せと言われれば、一瞬の迷いもなく剣を振るう。」
誰も言葉を返せなかった。
シオンは静かに拳を握る。
七星将。
ヴォルグだけでも規格外だった。
その怪物があと六人いる。
しかも次に現れるのは、その中でも最も冷酷な存在。
旅はさらに危険になる。
それでも。
止まる理由にはならなかった。
「急ぐぞ。」
ガルドが言う。
「飛空艇を逃したら終わりだ。」
同じ頃――。
ベルク郊外の森。
朝霧の中を、アリア・ナイトシェイドは一人歩いていた。
昨夜の任務。
結果は失敗。
シャドウ隊長として許されない失態だった。
暗殺は成功して初めて意味を持つ。
失敗した暗殺者に価値はない。
それは誰よりも自分自身が理解している。
それでも。
黒髪の少年の姿だけが頭から離れなかった。
シオン・アルヴィス。
「……変な奴。」
また同じ言葉が零れる。
その時、背後で木々が揺れた。
「珍しいな。」
低い男の声。
アリアは振り返らない。
「ヴォルグ。」
七星将筆頭。
ヴォルグ・アイゼン。
彼は静かに立っていた。
「失敗したそうだな。」
アリアは黙ったまま頷く。
「理由は?」
「分からない。」
ヴォルグは静かに笑う。
「感情だ。」
「感情?」
「お前が最も不要だと教えられたものだ。」
アリアは目を伏せた。
シャドウでは感情を持つことを許されない。
名前も。
記憶も。
過去も。
必要なのは任務だけ。
それが彼女の人生だった。
ヴォルグは空を見上げる。
「昔のお前なら迷わなかった。」
「……。」
「その少年から目を離すな。」
アリアが顔を上げる。
「いずれ世界を変える。」
ヴォルグは朝霧の向こうへ歩きながら最後に言った。
「良くも悪くもな。」
その言葉だけが静かな森に残った。
アリアは胸の奥を押さえる。
違和感は消えない。
むしろ、少しずつ大きくなっていた。
一方その頃。
ベルク地下深部。
誰にも知られていない古代遺跡。
巨大な装置が静かに目を覚ます。
青白い光。
古代文字。
巨大な結晶。
その中心には黒星晶の紋章が刻まれていた。
『観測対象確認。』
『適合率上昇。』
『黒星晶同期開始。』
『観測者覚醒予測。』
誰も聞いていない。
だが確実に、運命の歯車は回り始めていた。
そして朝。
飛空艇発着場。
巨大な飛空艇がゆっくりと浮上していく。
シオンは空を見上げた。
「本当に飛んでる……。」
エリナが笑う。
「だから飛空艇だってば!」
ルナリアも微笑んだ。
青空。
飛空艇。
仲間たち。
一瞬だけ普通の旅人のような時間が流れる。
しかし、その裏では七星将が動き出している。
星喰いもまた静かに目覚めつつある。
そして何より――失われた記憶が少しずつ動き始めていた。
遠く離れた屋上。
アリアは飛び立つ飛空艇を静かに見つめていた。
「シオン・アルヴィス……。」
その名を小さく呟く。
「次は……。」
殺す。
そう言うはずだった。
だが言葉は続かない。
理由は、自分にも分からない。
飛空艇は青空へと消えていく。
旅は新たな舞台――世界樹都市アストレアへ。
そこには黒星晶の真実。
月の民の歴史。
そしてシオン自身の運命へ繋がる秘密が待っていた。
さらにその先では――。
氷晶将セラフィナ・フロストが、静かに動き始めていることを、まだ誰も知らなかった。




