「影の暗殺者」
夕暮れの交易都市ベルクは、茜色の光に包まれていた。
巨大な城壁が街を囲み、その内側では商人たちの声が飛び交う。荷馬車が石畳を走り、露店からは香ばしい匂いが漂う。空を見上げれば、青く輝く星晶炉を積んだ飛空艇が悠然と頭上を横切っていた。
辺境都市グランベルのスラムで育ったシオンにとって、それはまるで別世界だった。
「でか……」
思わず漏れた声に、隣を歩くエリナが胸を張る。
「でしょ! ベルクは大陸有数の交易都市なんだから!」
得意げな様子にシオンは肩をすくめた。
その時だった。
グゥゥゥゥゥ……
腹の虫が盛大に鳴いた。
一瞬の沈黙。
ルナリアが吹き出しそうになるのを必死に堪え、エリナは遠慮なく笑い転げた。
「やっぱり!」
「シオンって本当に分かりやすい!」
「うるさい」
顔をしかめるシオンに、ガルドが呆れたように言う。
「世界の真実を追う前に飯か」
「腹減ったら何も考えられないだろ」
真顔で返すと、ルナリアが小さく笑った。
その笑顔を見た瞬間、シオンは少しだけ安心する。
星喰い。
黒星晶。
最後の観測者。
重すぎる現実ばかりだった旅の中で、こうした何気ない時間がどれほど貴重なのかを知らず知らず感じていた。
数時間後。
四人は宿屋兼酒場で夕食を取っていた。
焼き肉。
温かなスープ。
焼きたてのパン。
久しぶりのまともな食事だった。
シオンはほとんど無言で食べ続ける。
「生き返る……」
心の底からの呟きだった。
エリナは呆れたように笑い、ルナリアは優しく微笑む。
旅は始まったばかり。
追われる身であることに変わりはない。
それでも今だけは、普通の旅人のような時間が流れていた。
だが。
そんな平穏は長く続かない。
夜。
ベルクの街は静まり返っていた。
昼間の喧騒は消え、月明かりだけが石畳を照らしている。
宿のベランダに立ち、ルナリアは夜空を見上げていた。
丸い月が浮かんでいる。
どこか懐かしい光。
その光を見るたびに胸が痛む。
月の民。
月の継承者。
自分の正体。
まだ何も分からない。
その時だった。
風が動く。
音はない。
気配もない。
だがルナリアの本能が危険を告げた。
「……誰?」
振り向くより早く、銀色の刃が首元へ走る。
キィィィン!!
咄嗟に身を引く。
切り落とされた銀髪が月光の中へ舞った。
目の前に立っていたのは黒い外套の男だった。
銀色の仮面。
短剣。
感情のない視線。
暗殺者。
「避けたか」
冷たい声だった。
ルナリアの表情が強張る。
「シャドウ……」
エクリプス教団最強暗殺部隊。
噂だけは知っていた。
だが実物は初めてだった。
そして理解する。
目の前の男は危険だ。
だが本当に恐ろしい存在は、まだ姿を見せていない。
同じ頃。
シオンは眠っていた。
その胸の奥で黒星晶が脈打つ。
ドクン――
目が開く。
嫌な予感だった。
理由は分からない。
だが分かる。
ルナリアが危ない。
「ルナリア!」
ベッドを蹴り飛ばし、部屋を飛び出す。
廊下を駆け抜ける。
扉を蹴破る。
そして見た。
銀の刃。
ルナリア。
暗殺者。
「離れろ!!」
シオンは迷わず飛び込んだ。
拳を振り抜く。
だが暗殺者は軽やかに後退した。
その時だった。
闇の奥から声が響く。
「なるほど」
女の声。
静かな声。
だが空気が変わった。
月明かりの中へ、一人の少女が歩み出る。
黒髪。
紫の瞳。
漆黒の戦闘服。
十八歳ほどに見える少女。
だがその存在感は異質だった。
静かで。
冷たくて。
鋭い。
まるで研ぎ澄まされた刃そのもの。
仮面の暗殺者が頭を下げる。
「隊長」
シオンの背筋に冷たいものが走る。
シャドウを率いる存在。
エクリプス教団最恐の暗殺者。
アリア・ナイトシェイド。
彼女はシオンを見た。
感情のない瞳。
殺意だけがそこにあった。
「黒星晶保持者」
静かな宣告。
「排除対象」
シオンは拳を構える。
「やってみろ」
沈黙。
そして。
アリアの姿が消えた。
「なっ!?」
気付いた時には背後。
刃が迫る。
キィィィィィン!!
咄嗟に防ぐ。
だが衝撃を殺しきれない。
シオンの身体は壁を突き破り吹き飛んだ。
「シオン!!」
ルナリアの叫びが響く。
強い。
今まで戦った誰とも違う。
ヴォルグのような圧倒的な力ではない。
ガルドのような豪快さでもない。
純粋な殺しの技術。
人を殺すためだけに磨かれた力。
その異質さにシオンは戦慄した。
「こいつ……ヤバい」
瓦礫の中から立ち上がる。
アリアは淡々と歩み寄ってくる。
だが。
その時だった。
彼女の足が止まる。
シオンの瞳を見た瞬間。
胸の奥が微かに疼いた。
懐かしい。
知らないはずなのに。
忘れてしまった誰かを思い出しそうになる。
アリアは眉をひそめた。
任務中に感情など不要。
そう教え込まれてきた。
なのに。
刃が動かない。
その隙をシオンは見逃さなかった。
地面を蹴る。
拳を叩き込む。
ドォォォォン!!
アリアが数歩後退する。
シャドウ隊長が攻撃を受けた。
それだけで周囲の暗殺者たちは動揺していた。
だがアリアは怒らない。
ただ静かにシオンを見つめている。
そして小さく呟いた。
「……変な奴」
その一言を残し。
彼女の姿は闇へ溶けた。
「撤退する」
暗殺者たちも消える。
気配は完全に消失した。
静寂。
誰もすぐには動けなかった。
シオンは拳を下ろす。
勝ったわけではない。
逃げたわけでもない。
見逃された。
それだけは確信できた。
――――――
その夜。
ベルク外縁部の時計塔。
アリアは一人、月を見上げていた。
胸が痛む。
理由が分からない。
シオンの瞳。
あの黒い瞳を思い出すたびに心が揺れる。
首元の黒いチョーカーに触れる。
唯一の私物。
なぜ持っているのかも分からない。
教団に拾われる以前の記憶は存在しない。
それなのに。
シオンを見た瞬間だけ。
失われた記憶の奥で何かが軋んだ。
通信結晶が光る。
ゼルヴァスの声が響く。
『アリア』
「報告します」
『対象は?』
短い問い。
アリアは数秒だけ沈黙した。
そして。
「逃亡しました」
嘘だった。
殺せた。
だが殺さなかった。
通信の向こうでゼルヴァスが静かに笑う。
『そうか』
その声に。
なぜか寒気が走った。
『ならば次は私も動こう』
通信は切れる。
風が吹く。
アリアは再び月を見る。
忘れたはずの記憶。
思い出せない名前。
だが一つだけ確かなことがあった。
黒星晶保持者。
シオン・アルヴィス。
その存在が、自分の運命を大きく動かし始めている。
そしてその先にある真実を。
まだ誰も知らない。
失われた名前へと続く運命を――。




