「旅立ちの空」
朝日が峡谷を照らしていた。
昨夜の激戦が嘘のように、空は静かだった。
だが、その静けさは平穏ではない。
砕けた岩壁。
焼け焦げた大地。
重力によって抉られた巨大なクレーター。
そして、星喰いの眷属が残した黒い結晶。
戦いの痕跡は、峡谷の至るところに深く刻まれていた。
シオンは一人、その黒い結晶を見つめていた。
昨夜、空を覆った巨大な瞳。
世界の外側からこちらを見下ろしていた存在――星喰い。
そして、奴は確かに言った。
『見つけた』
『最後の観測者』
シオンは拳を握り締める。
「最後の観測者……」
意味は分からない。
だが、その言葉だけが頭から離れなかった。
知らないはずなのに、どこか懐かしい。
まるで、自分自身が忘れていた何かを呼び起こされたようだった。
「考えても答えは出ないぞ」
背後から声がした。
振り返ると、ガルドが巨大な剣を肩に担いで立っていた。
「お前に必要なのは情報だ」
「情報?」
「ああ」
ガルドは空を見上げる。
朝日に照らされた青い星晶。
昨日まで希望の象徴だったその光は、今のシオンには不気味に見えた。
「この世界の真実を知りたいなら、アストレアへ行け」
「アストレア?」
「世界樹都市アストレアだ」
その名を聞いた瞬間、ルナリアが顔を上げる。
「世界最大の学術都市……」
ガルドは頷いた。
「古代星晶学の中心地だ。禁忌文献もある。月の民の記録も残っている」
「そこに行けば、黒星晶や星喰いのことも分かるのか?」
「少なくとも、今ここで悩むよりは前へ進める」
シオンは黙り込んだ。
黒星晶。
星喰い。
月の民。
エクリプス教団。
そして最後の観測者。
分からないことばかりだった。
逃げるだけでは、何も変わらない。
ならば進むしかない。
シオンはゆっくり頷いた。
「行く」
ガルドは満足そうに笑った。
「その意気だ」
数時間後。
三人は峡谷を後にした。
目の前に広がるのは乾いた荒野だった。
かつては緑豊かな土地だったという。
川が流れ、町が栄え、旅人たちが行き交った街道。
だが今は違う。
星晶の枯渇によって土地は痩せ、町は滅び、人々の姿は消えていた。
世界は確実に死へ向かっている。
その現実を、シオンは改めて思い知らされる。
道中、ルナリアは古びた地図を広げていた。
「ここを越えれば、交易都市ベルクに着くはず」
「ベルク?」
「飛空艇の発着場があるの。アストレアへ行くなら、そこから向かえると思う」
「飛空艇か……」
シオンが小さく呟くと、ルナリアが首を傾げた。
「乗ったことないの?」
「スラム育ちだぞ」
「あ……ごめん」
「だから何で謝るんだよ」
シオンが苦笑すると、ルナリアも思わず笑った。
ほんの小さな笑顔。
だが、昨日まで処刑台に立っていた少女が笑っている。
それだけで、少しだけ空気が軽くなった。
ガルドは二人を見て、何も言わなかった。
その時だった。
「助けてぇぇぇ!!」
遠くから悲鳴が響いた。
三人は同時に顔を上げる。
嫌な予感しかしなかった。
ガルドが深いため息を吐く。
「行くぞ」
「だろうな」
シオンは苦笑しながら駆け出した。
荒野の先。
崩れかけた街道で、商隊が襲われていた。
荷馬車は横転し、荷物が散乱している。
護衛たちは倒れ伏し、生き残った者たちは必死に逃げ惑っていた。
その中心にいたのは、巨大な魔物。
全長五メートルを超える巨体。
鋼鉄のような外殻。
巨大な牙。
岩を砕くほどの腕。
普通の魔物とは、明らかに格が違った。
「まずい!」
シオンは迷わず飛び出した。
魔物が振り向く。
咆哮が大地を震わせる。
それでもシオンは止まらない。
一気に懐へ飛び込み、拳を叩き込む。
轟音。
魔物の巨体がわずかに揺れた。
だが外殻は砕けない。
「硬っ……!」
魔物が反撃に腕を振り上げる。
その瞬間、風を裂く音がした。
一本の矢が、魔物の片目へ突き刺さる。
悲鳴。
さらに二本、三本。
矢は次々と急所へ吸い込まれていった。
「そこ!」
少女の声が響く。
シオンが振り向くと、岩の上に一人の少女が立っていた。
金色の髪。
翠色の瞳。
緑を基調とした旅装束。
そして、身の丈ほどもある巨大な弓。
「首の下! 外殻が薄い!」
シオンは反射的に動いた。
魔物の懐へ飛び込み、指示された場所へ拳を叩き込む。
轟音。
今度こそ外殻が砕け、巨体が崩れ落ちた。
静寂。
少女は岩の上から軽やかに飛び降り、満面の笑みでシオンの肩を叩いた。
「やるじゃん!」
「……誰だ、お前」
少女は胸を張った。
「私はエリナ! エリナ・ウィンドレイ!」
さらに堂々と言い放つ。
「未来の大冒険家!」
元気だった。
とにかく元気だった。
シオンは一瞬で理解した。
面倒なのが来た。
ガルドが眉をひそめる。
「ウィンドレイだと?」
エリナが振り返る。
「知ってるの?」
「風晶術士の名門だ。何でそんな家の娘がこんな場所にいる」
エリナは満面の笑みで答えた。
「家出!」
沈黙。
シオンは頭を抱えた。
「帰れよ」
「やだ!」
即答だった。
ルナリアが思わず吹き出す。
絶望しかなかった旅路に、少しだけ騒がしさが混ざった。
だが、彼らはまだ知らない。
この出会いが、未来を大きく変えることを。
遠く離れた断崖の上。
一人の男が静かに立っていた。
黒い外套。
黒い仮面。
影そのもののような存在。
胸元にはエクリプス教団の紋章。
男は通信結晶を取り出した。
『対象確認』
感情のない声。
『黒星晶保持者、シオン・アルヴィス』
沈黙。
そして。
『排除任務を開始する』
通信が切れる。
男の赤い瞳が妖しく光った。
教団最強暗殺部隊――《シャドウ》。
その最高位に位置する暗殺者。
アリアス・クロム。
彼は静かに二振りの黒刃へ手を添えた。
そして、音もなく姿を消す。
シオンたちの知らない場所で。
新たな追跡が、始まっていた。




