「星喰い襲来」
黒い結晶が、夜空から降り注いでいた。
それは流星ではない。
雨でもない。
世界の外側から落ちてくる、災厄の欠片だった。
峡谷の上空では、黒い月が不気味に脈動している。
ドクン。
ドクン。
その鼓動に合わせるように空間が軋み、大地が震えた。
星喰い。
第5話で姿を現した黒い月は、ついに現実へ牙を剥いたのだ。
黒い結晶が地面へ突き刺さる。
一つ。
十。
百。
数え切れないほどの結晶が、峡谷一帯を埋め尽くしていく。
そして。
パキリ――。
結晶の表面に亀裂が走った。
次の瞬間、無数の怪物が姿を現す。
漆黒の外殻。
真紅の瞳。
歪んだ四肢。
生物とは思えない異形。
まるで、人類の悪夢そのものが肉体を得たような存在だった。
「ギャァァァァァァァ!!」
咆哮が峡谷を震わせる。
教団兵たちの顔色が、一瞬で変わった。
「な、何だこいつら!?」
「魔物じゃない!」
「隊列を維持しろ!」
「無理だ、速すぎる!」
命令は悲鳴に変わった。
怪物の一体が地面を蹴る。
その速度は異常だった。
次の瞬間、教団兵の身体が宙を舞う。
鮮血が夜空へ散った。
悲鳴。
怒号。
絶叫。
つい先ほどまでシオンたちを追い詰めていた教団軍は、一瞬で狩られる側へ回っていた。
戦場が、地獄へ変わっていく。
シオンは息を呑んだ。
今まで見てきた魔物とは違う。
殺意の質が違う。
ただ生きるために襲うのではない。
ただ捕食するのでもない。
まるで、人類そのものを憎んでいるかのようだった。
「くそっ!」
シオンは反射的に走り出す。
怪物に襲われかけていた兵士を突き飛ばした。
「どけ!」
兵士が地面を転がる。
その直後、怪物の爪がシオンへ迫った。
避けられない。
そう思った瞬間――。
ドォォォォォン!!
紅蓮の炎が怪物を飲み込んだ。
「前を見ろ、ガキ!」
ガルドだった。
炎を纏った大剣が轟音とともに振り下ろされ、怪物の身体を吹き飛ばす。
黒い異形は岩壁へ叩きつけられた。
「助かった!」
「礼は後だ!」
ガルドは炎を纏ったまま周囲を警戒する。
だが、次の瞬間、その表情が変わった。
焼き払ったはずの怪物が蠢いている。
炭化した肉体。
砕けた骨格。
失われた頭部。
それらすべてが黒い霧へ変わり、再び一つに集まり始めていた。
「何だと……?」
数秒後。
怪物は何事もなかったかのように立ち上がった。
ルナリアの顔が青ざめる。
「やっぱり……。」
シオンが振り返った。
「知ってるのか!?」
ルナリアは唇を震わせながら答える。
「星喰いの眷属よ……。」
「星晶に蓄積された負の感情が、形になった存在……。」
ガルドが眉をひそめる。
「つまり?」
「普通には倒せない。」
最悪の答えだった。
その直後。
重力が爆発した。
ドォォォォォォン!!
大地が陥没し、怪物たちがまとめて押し潰される。
砕けた岩盤の中心に立っていたのは、ヴォルグ・アイゼンだった。
黄金の瞳が冷たく光る。
「全軍。」
低い声が峡谷へ響いた。
「怪物殲滅を最優先とする。」
教団兵たちが戸惑う。
「しかし、対象は――」
「命令だ。」
それだけで全員が沈黙した。
ヴォルグはシオンたちを許したわけではない。
だが今だけは違う。
星喰いの前では、人類は同じ側に立たされる。
ガルドが苦笑した。
「まさか教団と共闘する日が来るとはな。」
「勘違いするな。」
ヴォルグは冷たく言う。
「お前たちを許したわけではない。」
「だろうな。」
シオンも短く返した。
だが、今は戦うしかない。
怪物たちが再び立ち上がる。
焼かれても。
潰されても。
斬られても。
何度でも再生する。
炎。
重力。
魔法。
銃撃。
あらゆる攻撃が飛び交う。
それでも怪物の数は減らない。
むしろ増えているようにすら見えた。
その時だった。
ドクン――。
シオンの胸が熱を帯びる。
右腕に刻まれた黒い紋章が脈動した。
黒星晶。
視界が歪む。
世界の色が変わる。
そしてシオンには、怪物たちの本質が見えた。
外殻ではない。
牙でもない。
爪でもない。
その奥に渦巻くもの。
絶望。
怒り。
悲しみ。
憎しみ。
後悔。
無数の感情が、黒い泥のように蠢いている。
怪物の正体は魔物ではなかった。
人間の感情そのもの。
世界が長い年月をかけて蓄積した、負の感情だった。
「これは……。」
その瞬間、頭の奥で声が響く。
『喰らえ。』
低く深い声。
『黒星晶は終焉ではない。』
『循環だ。』
シオンは無意識に右手を伸ばした。
黒い光が広がる。
怪物が悲鳴を上げた。
「ギィィィィィィ!!」
身体が崩壊する。
黒い霧となった怪物が、シオンの右腕へ吸い込まれていく。
完全に。
跡形もなく。
再生することなく。
「なっ……!?」
ガルドが目を見開いた。
ルナリアも言葉を失う。
「倒した……?」
違う。
シオンには分かっていた。
倒したのではない。
吸収したのだ。
怪物の中にあった絶望も、憎しみも、悲しみも。
すべてが自分の内側へ流れ込んでくる。
吐き気がした。
頭が割れそうだった。
それでも黒星晶は、そのすべてを受け止めていた。
ヴォルグの瞳が揺れる。
初めて見せる驚愕だった。
「黒星晶……。」
低く呟く。
「やはり存在したか。」
シオンは右腕を見る。
紋章は以前より濃くなっていた。
力が増している。
しかし同時に、自分の何かが削られていくような感覚があった。
ルナリアが叫ぶ。
「シオン! 無理しないで!」
「分かってる!」
だが止まれない。
目の前で人が死んでいる。
敵も味方も関係なく。
星喰いの眷属は、すべてを喰らおうとしていた。
シオンは再び手を伸ばす。
二体。
三体。
四体。
怪物が次々と霧となって消えていく。
だがそのたびに、誰かの絶望が流れ込む。
誰かの後悔が流れ込む。
誰かの悲鳴が聞こえる。
「まだ……いける……!」
その時だった。
空が割れた。
バキィィィィン――。
巨大なガラスが砕けるような音。
誰もが空を見上げる。
そこにあったのは、巨大な瞳だった。
空を埋め尽くすほどの、赤い瞳。
世界の外側から、こちらを見下ろしている。
兵士たちは震え、ガルドは歯を食いしばり、ヴォルグでさえ表情を硬くした。
本能が理解していた。
あれこそが星喰い。
本体。
世界を滅ぼす存在。
巨大な瞳が、ゆっくりとシオンを見つめる。
そして、笑った。
『見つけた。』
低い声が世界中へ響く。
大地が軋む。
空が震える。
『最後の観測者。』
シオンの身体が凍り付いた。
「最後の……観測者?」
聞いたことのない言葉。
だが胸の奥が妙にざわつく。
まるで、自分自身も知らない真実を呼ばれたようだった。
星喰いは、それ以上語らなかった。
満足したように闇の向こうへ消えていく。
亀裂が閉じる。
黒い月が薄れる。
眷属たちも動きを止めた。
一部は霧となって消え、一部は峡谷の闇へ逃げ去っていく。
静寂が訪れる。
誰も声を出せない。
ただ一人、ヴォルグだけが空を見上げていた。
「始まったな……。」
その声は、未来の破滅を知る者の声だった。
シオンは右腕を握り締める。
黒星晶が静かに脈打つ。
最後の観測者。
星喰い。
黒星晶。
世界崩壊。
謎は、少しずつ繋がり始めていた。
翌朝。
ガルドはシオンとルナリアに告げた。
「ここに留まれば、次は確実に死ぬ。」
そして、崩れかけた峡谷の向こうを見据える。
「向かうぞ。」
「世界樹都市アストレアへ。」
世界の真実を知る者がいる場所。
運命が待つ場所へ。
シオンは空を見上げた。
黒い月はもう見えない。
だが確かに感じる。
世界の終わりが、自分の名を呼び始めていることを。
そして――。
新たな旅が、始まろうとしていた。




