「月の継承者」
夜空に黒い月が浮かんでいた。
それは星ではなかった。
雲でも影でもない。
生きている。
呼吸している。
脈打っている。
まるで世界そのものを見下ろし、喰らう時を待っているかのようだった。
その異様な光景を前に、誰も言葉を発せなかった。
峡谷の高台に立つガルドだけが、険しい表情で空を見上げている。
「星喰い……」
低く漏れた声には、今までにない重みがあった。
シオンも空を見上げる。
背筋が凍る。
本能が警鐘を鳴らしていた。
あれは戦う存在ではない。
剣を向けることすら許されない何かだ。
勝てるかどうかではない。
存在の格が違う。
そんな感覚だった。
その時だった。
隣でルナリアが苦しそうに胸を押さえた。
「っ……!」
銀色のペンダントが蒼白い光を放っている。
シオンは慌てて駆け寄った。
「ルナリア!」
「痛い……」
息が荒い。
額に汗が浮かぶ。
「胸が……苦しい……!」
「何が起きてる!?」
「分からない……でも……」
ルナリアは震える声で続けた。
「何かが……流れ込んでくる……」
その瞬間。
彼女の瞳が蒼銀色に輝いた。
世界が白く染まる。
意識が現実から引き剥がされる。
見えたのは巨大な神殿だった。
月光に包まれた白亜の神殿。
空へ伸びる塔。
青く輝く結晶群。
そして祭壇の中央に、一人の女性が立っていた。
銀色の髪。
蒼い瞳。
どこかルナリアによく似た面影。
女性は優しく微笑む。
だがその瞳には深い悲しみが宿っていた。
『ごめんなさい』
声が響く。
『あなたに全てを託します』
ルナリアは思わず手を伸ばした。
「待って……!」
「あなたは誰なの……?」
女性は答えない。
ただ微笑むだけだった。
そして最後に。
『月は必ずあなたを導く』
その言葉を残し、世界が砕け散る。
眩い光。
そして現実へ引き戻された。
「はぁっ……!」
ルナリアは大きく息を吸い込む。
胸元のペンダントはまだ微かに光っていた。
シオンが心配そうに覗き込む。
「大丈夫か?」
ルナリアは戸惑いながら頷いた。
「うん……」
だが胸の奥では確信していた。
あれは夢ではない。
誰かの記憶だった。
そして自分に繋がる何かだった。
その時だった。
轟音が峡谷全体を揺らした。
ドォォォォォン!!
遠くで爆発が起きる。
岩壁が震える。
地面が揺れる。
ガルドが顔を上げた。
その表情が険しく変わる。
「来たか」
峡谷の入り口。
そこに無数の光が現れていた。
松明。
星晶灯。
魔法陣。
まるで夜の海に浮かぶ光の軍勢。
エクリプス教団軍だった。
数百。
いや。
千を超える。
圧倒的な戦力。
そしてその先頭には七つの影が立っていた。
空気が変わる。
ただ存在するだけで空間が重くなる。
ガルドが小さく舌打ちした。
「最悪だな」
シオンが問う。
「知ってる奴らか?」
「ああ」
ガルドは短く答えた。
「七星将だ」
その名を聞いた瞬間、ルナリアの顔色が変わる。
エクリプス教団最高戦力。
世界最強の七人。
一人で国家を滅ぼせるとさえ噂される怪物たち。
その中から一人の男が前へ出た。
白銀の長髪。
黄金の瞳。
黒い軍服。
鍛え抜かれた巨躯。
七星将筆頭。
ヴォルグ・アイゼン。
教団最強と呼ばれる男だった。
ヴォルグは静かにシオンを見つめる。
まるで品定めをするように。
「なるほど」
低い声が峡谷へ響いた。
「これが黒星晶保持者か」
シオンは警戒する。
だが不思議だった。
殺意を感じない。
敵意はある。
だが憎しみではない。
「思ったより普通だな」
「どうも」
皮肉を返すと、ヴォルグはわずかに口元を緩めた。
「度胸はあるらしい」
次の瞬間だった。
世界が重くなる。
ドン――
シオンの膝が地面へ叩き付けられた。
「ぐっ……!」
立てない。
身体が重い。
まるで巨大な山を背負わされたようだった。
ルナリアも倒れ込む。
ガルドだけが大剣を地面へ突き立てて耐えていた。
「ヴォルグ!!」
炎が噴き上がる。
ガルドの大剣が紅蓮に染まる。
しかしヴォルグは微動だにしない。
「久しぶりだな、炎牙」
二人の視線が交差した瞬間。
周囲の岩壁が砕け散った。
ただ圧力だけで。
シオンは戦慄する。
次元が違う。
これが世界最強の領域。
これが七星将。
ヴォルグは静かに口を開く。
「シオン・アルヴィス」
黄金の瞳が真っ直ぐ向けられる。
「一つ聞きたい」
「何だよ」
「お前は世界を救いたいか?」
唐突な問いだった。
シオンは眉をひそめる。
「救えるなら救いたい」
「救えないなら?」
「それでも足掻く」
沈黙。
ヴォルグは小さく笑った。
その笑みはどこか悲しかった。
「そうか」
「昔の私と同じだ」
ガルドの顔色が変わる。
「ヴォルグ」
「それ以上はやめろ」
だがヴォルグは続けた。
「感情では世界は救えない」
「理想でも救えない」
「犠牲は必要だ」
「少数を切り捨てなければ、人類は生き残れない」
シオンは睨み返す。
「だから教団に従えってか」
「違う」
ヴォルグは静かに首を振った。
「私は現実を見ているだけだ」
その瞳の奥に見えたのは絶望だった。
誰かを守れなかった者だけが持つ目。
何かを失った者の目だった。
その瞬間。
空が脈動した。
ドクン。
黒い月が鼓動する。
世界全体が震えた。
ヴォルグの表情が変わる。
ガルドも空を見上げた。
そして。
黒い結晶が降り始める。
流星のように。
絶望の雨のように。
「まずい!!」
ガルドが叫ぶ。
「全員離れろ!!」
黒い結晶が地面へ落下する。
次の瞬間。
砕け散った。
そして中から現れる。
漆黒の身体。
血のような赤い瞳。
歪んだ骨格。
人でも獣でもない異形。
星喰いの眷属。
絶望そのものが形を持った怪物だった。
咆哮が夜空を震わせる。
さらに。
一体ではない。
十体。
百体。
無数。
峡谷を埋め尽くすほどの怪物たちが出現していた。
教団軍の隊列が崩れる。
兵士たちの悲鳴が響く。
七星将たちですら表情を変える。
ヴォルグが低く呟いた。
「早すぎる……」
黄金の瞳が空を見上げる。
「まだ、その時ではないはずだ」
黒い月が再び脈動する。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
世界の終焉を告げるように。
シオンは拳を握り締めた。
旅は始まったばかりだった。
世界の真実も。
ルナリアの正体も。
黒星晶の意味も。
まだ何も知らない。
だが一つだけ分かる。
世界の終わりは。
想像していたより遥かに近くまで迫っている。




