「エクリプス教団」
夜のグランベルを、赤い炎が染め上げていた。
轟音が響く。
建物が崩れ落ちる。
石畳が砕け散り、逃げ惑う人々の悲鳴が夜空へ溶けていく。
その混乱の中心で、黒い光が静かに脈動していた。
シオン・アルヴィス。
彼の右腕から溢れ出す漆黒の輝きは、周囲の星晶の青い光すら呑み込み、まるで世界に存在してはならない力であるかのような禍々しさを放っていた。
数時間前。
廃教会でルナリアから聞かされた真実は、今もシオンの頭から離れない。
星晶は希望だけを宿す結晶ではない。
人々の怒りも、悲しみも、憎しみも、絶望さえも吸収し続けている。
そして、その積み重ねが世界を蝕み始めている。
世界崩壊は自然災害ではない。
人類自身が生み出した災厄だった。
その真実へ辿り着いた月の民は滅ぼされ、ルナリアだけが生き残った。
だが今は、その真実を考えている余裕などない。
教団が来た。
「発見!」
「対象を確認!」
「包囲を維持しろ!」
怒号とともに、数十人を超える教団兵が路地を埋め尽くす。
逃げ道は完全に塞がれていた。
ルナリアが小さく震える。
「どうして……。」
「まだ追ってくるの……?」
シオンは剣を握り直し、前へ出た。
「俺に聞くな。」
短く答えながらも、その理由は分かっていた。
追われているのはルナリアだけではない。
自分もまた、教団に狙われている。
処刑場で暴走しかけた、あの黒い力。
あの瞬間から、すべてが変わってしまった。
ドクン――。
右腕が大きく脈打つ。
焼けるような熱が身体中を駆け巡る。
「っ……!」
シオンは思わず膝をついた。
ルナリアが駆け寄る。
「シオン!」
「近づくな……!」
右腕から黒い光が漏れ出す。
兵士たちの顔色が一斉に変わった。
「黒い……星晶?」
「まさか……。」
ざわめく兵士たちを割るように、一人の男がゆっくりと姿を現した。
白銀の法衣。
冷たい眼差し。
整った顔立ち。
その威圧感だけで周囲の兵士たちは自然と道を開ける。
エクリプス教団司教――ゼルヴァス。
彼は黒い光を見つめ、静かに目を細めた。
驚きではない。
確信だった。
「……やはり。」
静かな一言。
その声だけで空気が張り詰める。
ゼルヴァスはシオンを見据えたまま告げた。
「黒星晶。」
その名が響いた瞬間、兵士たちが息を呑む。
伝説。
禁忌。
存在してはならない力。
教団だけが知る、世界最大の禁忌。
それが今、シオンの中で目覚めようとしていた。
ゼルヴァスは淡々と命じる。
「捕らえろ。」
静かな命令だった。
だが逆らう者はいない。
「生死は問わない。」
一斉に兵士たちが武器を構える。
数十もの殺気がシオンへ向けられた。
シオンは苦笑する。
「またかよ……。」
その瞬間だった。
轟音。
夜空が真紅に染まる。
巨大な炎が戦場を横断し、教団兵たちを一瞬で吹き飛ばした。
石畳が砕け、炎の壁が立ち上がる。
凄まじい熱風が吹き荒れた。
「なっ……!」
兵士たちが驚愕する中、炎の向こうから一人の男がゆっくり歩いてくる。
赤い外套。
巨大な大剣。
全身に刻まれた無数の傷跡。
獣のような鋭い眼光。
それでいて豪快な笑み。
「派手にやってるじゃねぇか。」
その声を聞いた瞬間、シオンの表情が明るくなった。
「おっさん!」
男の眉がぴくりと動く。
「誰がおっさんだ。」
「まだ三十五だぞ。」
「十分おっさんだろ。」
「殴るぞ。」
「やってみろよ。」
二人の軽口に、張り詰めていた空気がほんの少しだけ緩む。
ルナリアは思わず吹き出した。
「ふふっ……。」
だが、その笑みとは対照的に、ゼルヴァスの表情は一切変わらない。
「炎牙のガルド……。」
その名を聞いた兵士たちの顔色が青ざめた。
「まさか……。」
「あの伝説が……。」
国家級災害指定。
一人で戦争を終わらせた最強の傭兵。
生ける伝説。
それが炎牙のガルドだった。
ガルドは大剣を肩へ担ぎ、シオンを見る。
「迎えに来た。」
シオンは首を傾げる。
「迎え?」
「説明は後だ。」
ガルドの目が鋭くなる。
「ここはもう安全じゃねぇ。」
そしてルナリアへ視線を向けた。
「お前もな。」
ルナリアは戸惑いながら問い返す。
「私を……知ってるの?」
ガルドは答えない。
だが、その眼差しには迷いがなかった。
まるで彼女の正体を最初から知っていたかのように。
ゼルヴァスが一歩前へ出る。
「逃がすと思いますか?」
ガルドは鼻で笑う。
「思わねぇな。」
炎と星晶の光がぶつかり合い、空気が震える。
司教と伝説の傭兵。
二人の怪物が静かに向かい合った。
その時だった。
ルナリアの胸元で揺れる銀のペンダントが、かすかに輝いた。
「……え?」
彼女は胸へ手を当てる。
心臓が大きく鼓動していた。
誰かに呼ばれている。
そんな不思議な感覚。
遥か遠く。
空の彼方から。
優しく、懐かしい声が響く。
『――継承者を見つけた。』
知らない声。
知らない記憶。
それなのに、涙が出そうになるほど懐かしかった。
次の瞬間、その声は静かに消える。
残ったのは胸の奥に残る、小さな違和感だけだった。
ガルドが振り返る。
「急ぐぞ。」
シオンは眉をひそめる。
「どこへだよ。」
ガルドは夜空を見上げ、静かに答えた。
「世界の真実が眠る場所だ。」
その言葉の意味を、この時の二人はまだ知らない。
夜空の遥か上。
青く輝く星晶の海の向こう側で。
世界を喰らう災厄が、静かに目を覚まそうとしていた。
そして同時に。
月の血を継ぐ少女の運命もまた、静かに動き始めていた。




