「氷晶の魔女」
飛空艇《アルテミス号》は、雲海の上を静かに航行していた。
白銀の雲が果てしなく広がり、その上を巨大な船体が滑るように進んでいく。
甲板に立つシオンは、思わず息を呑んだ。
眼下には大地すら見えない。
見えるのは青い空と、遥か彼方に浮かぶ島々だけだった。
風が頬を撫でる。
太陽の光が星晶炉に反射し、眩しいほどの輝きを放っていた。
「すげぇ……」
自然と声が漏れる。
こんな景色を見たのは生まれて初めてだった。
スラムで生きてきた自分には、空を旅するなど夢物語でしかなかった。
隣でルナリアが小さく笑う。
「子供みたいな顔してる」
シオンは慌てて顔を背けた。
「うるさい」
「でも、楽しそう」
その言葉に反論はできなかった。
確かに楽しかった。
家族を失ってから。
スラムで生きるようになってから。
毎日を生き延びることだけで精一杯だった。
空を見上げて綺麗だと思う余裕もなかった。
未来を想像することすら忘れていた。
だからこそ、この時間はどこか新鮮だった。
ルナリアはそんなシオンを見て微笑む。
その表情には、ほんの少しだけ安堵が滲んでいた。
だが――
平穏は長く続かない。
甲板の向こうから、エリナが全力で駆けてきた。
「大変!!」
息を切らしている。
シオンは嫌な予感しかしなかった。
「今度は何だよ」
「前方の雲がおかしい!」
その言葉に、ガルドが顔を上げる。
そして次の瞬間。
表情が変わった。
「全員伏せろ!!」
轟音。
ドォォォォォン!!
飛空艇全体が激しく揺れた。
乗客たちの悲鳴が響く。
木箱が転がり、窓ガラスが砕け散り、甲板の手すりが吹き飛ぶ。
シオンは反射的にルナリアを抱き寄せた。
「何だ!?」
顔を上げる。
そして。
全員が言葉を失った。
空中に、一人の少女が立っていた。
白銀の長い髪。
蒼く透き通る瞳。
白銀の軍服。
整い過ぎた顔立ち。
まるで氷で造られた人形。
だが、その瞳には人間らしい温度が一切なかった。
ガルドが低く呟く。
「氷晶将……」
ルナリアの顔色が変わる。
「セラフィナ・フロスト……」
七星将。
教団最年少の怪物。
感情を捨てた少女。
セラフィナは静かにこちらを見下ろした。
「確認」
感情のない声。
「黒星晶保持者」
蒼い瞳がシオンを捉える。
「月の継承者」
今度はルナリアを見る。
そして。
「捕獲を開始します」
空気が凍った。
比喩ではない。
本当に。
空そのものが凍り始めた。
バキバキバキッ!!
飛空艇の船体が氷に覆われる。
甲板が白く染まる。
マストが凍結し、金属部品が悲鳴を上げる。
乗客たちが叫んだ。
「なっ……」
シオンは絶句した。
一瞬だった。
あまりにも異常な規模。
ヴォルグの重力も異常だった。
だが、これは別次元だった。
セラフィナはゆっくりと右手を掲げる。
空に巨大な魔法陣が展開された。
幾重にも重なる蒼白い紋様。
雲海を覆い尽くすほどの大きさ。
「氷晶術」
静かな声。
「絶対零域」
世界が白く染まった。
次の瞬間。
数千本もの氷槍が空を埋め尽くした。
「全員避けろォォォ!!」
ガルドの咆哮と同時に。
氷の雨が降り注ぐ。
ドガガガガガガガガッ!!
飛空艇が破壊される。
船体が裂ける。
甲板が吹き飛ぶ。
氷と炎と悲鳴が空を満たした。
地獄だった。
シオンはルナリアを抱えたまま転がる。
氷槍が数センチ横を通り過ぎる。
「こんなの反則だろ!」
思わず叫ぶ。
ルナリアも必死に叫び返した。
「七星将は全員反則なの!」
その時だった。
セラフィナの視線がシオンを捉える。
蒼い瞳。
何も映さない瞳。
だが。
ほんの一瞬だけ。
揺れた。
「……?」
違和感。
知らないはずなのに。
どこか懐かしい。
そんな表情だった。
シオンはその一瞬を見逃さなかった。
「行く!」
「シオン!?」
ルナリアが叫ぶ。
ガルドも目を見開いた。
無謀だった。
相手は七星将。
しかも空中。
こちらは崩壊寸前の飛空艇。
勝算などない。
だが。
シオンは止まれなかった。
黒星晶が脈動する。
右腕の紋章が黒く輝く。
拳へ闇が集まる。
「うおおおおおお!!」
甲板を蹴る。
砕けた手すりを足場にし、空へ飛び出した。
一直線。
セラフィナへ。
拳を振り抜く。
轟音。
黒い衝撃波が空を裂いた。
セラフィナは即座に氷壁を展開する。
分厚い防壁。
だが。
バキィィィィン!!
砕けた。
黒星晶の力が氷を侵食していく。
セラフィナの瞳が僅かに揺れる。
「……破壊?」
初めての動揺だった。
「危険」
そして。
「排除対象を更新」
さらに巨大な魔法陣が展開される。
今度は飛空艇一隻では済まない。
空そのものを覆う規模。
ガルドの顔色が変わる。
「まずい!」
その瞬間だった。
シュッ!
一本の矢が飛ぶ。
セラフィナの頬を掠めた。
氷の粒が散る。
「勝手に暴れるなー!!」
エリナだった。
巨大な弓を構えながら叫ぶ。
次々と放たれる風晶の矢。
魔法陣へ突き刺さる。
セラフィナの注意が逸れる。
その隙を。
ガルドは見逃さなかった。
炎が爆発する。
巨大な大剣が紅蓮に包まれる。
「紅蓮斬天!!」
炎の奔流。
氷の魔法陣。
二つの力が激突した。
爆発。
白と赤の閃光が空を塗り潰す。
セラフィナが初めて後退した。
勝ったわけではない。
だが。
十分だった。
飛空艇《アルテミス号》は限界を迎えていた。
星晶炉が暴走する。
船体が大きく傾く。
警報が鳴り響く。
「不時着するぞ!!」
船長の叫びが響いた。
大地が迫る。
森が近づく。
誰もが衝撃を覚悟した。
そして――
轟音。
飛空艇は森へ墜落した。
世界が揺れる。
木々が折れる。
炎と煙が舞い上がる。
数分後。
シオンはゆっくり目を開いた。
全身が痛む。
息を吸うだけで胸が軋んだ。
だが、生きている。
「ルナリア……!」
慌てて周囲を見る。
ルナリアは近くに倒れていた。
意識はある。
エリナも瓦礫から何とか這い出てきた。
ガルドも傷だらけになりながら立っている。
全員生きていた。
しかし。
セラフィナの姿はない。
代わりに。
遠くの木の上に、一人の少女が立っていた。
黒髪。
紫の瞳。
漆黒の装束。
アリア・ナイトシェイド。
彼女は静かにシオンを見つめている。
敵のはずだった。
暗殺者のはずだった。
それなのに。
その瞳はどこか悲しげだった。
まるで失われた何かを探しているように。
そしてシオンもまた気付いていた。
セラフィナが見せた一瞬の違和感。
アリアが見せる迷い。
二人とも。
自分を見た時だけ何かが揺らぐ。
まるで。
忘れてしまった過去に触れるように。
森の奥から冷たい風が吹く。
世界樹都市アストレアまでは、まだ遠い。
だが確実に近づいていた。
黒星晶の秘密へ。
月の民の真実へ。
そして――
失われた名前へ。
遠く離れた空の彼方。
セラフィナ・フロストは静かに森を見下ろしていた。
感情を持たないはずの少女は、小さく呟く。
「シオン・アルヴィス……」
その名を口にした瞬間。
胸の奥に微かな痛みが走る。
理由は分からない。
記録にも存在しない。
だが確かに。
その名前は、自分の中の何かを揺らしていた。
そして次の戦いは、もう始まっている。
世界樹都市アストレア。
そこで待つのは新たな真実。
そして氷晶将セラフィナの過去へと繋がる運命だった。




