「揺れる刃」
飛空艇《アルテミス号》の墜落から半日が過ぎていた。
シオンたちは墜落現場を離れ、深い森の奥へ身を隠していた。
頭上を覆う巨大な樹々は陽光を遮り、昼だというのに薄暗い。湿った土の匂いと、遠くで鳴く鳥の声だけが静かに響いている。
一見すれば平和な森だった。
だが、その静寂は不自然だった。
まるで森全体が息を潜め、何かを待っているようだった。
シオンは大樹にもたれながら小さく息を吐いた。
全身が痛む。
飛空艇墜落の衝撃は想像以上だった。
肩は重く、背中は軋み、腕を動かすだけでも鈍い痛みが走る。
ルナリアも肩に包帯を巻いていた。
エリナは足首を軽く捻っている。
まともに動けるのはガルドくらいだった。
そのガルドは平然と大剣の刃を磨いている。
シオンは半眼になった。
「お前、本当に人間か?」
ガルドは鼻で笑う。
「鍛え方が違う」
「それで済む問題じゃねぇだろ」
「済む」
「済まねぇよ」
即答だった。
思わずルナリアが吹き出す。
張り詰めていた空気が少しだけ和らぐ。
だが――。
ガサリ。
森の奥で枝が鳴った。
全員の表情が変わる。
シオンは即座に立ち上がった。
ルナリアも身構える。
エリナは弓を握り、ガルドは大剣を肩から下ろした。
静寂。
風すら止まったような感覚。
木々の隙間から現れた影を見た瞬間、シオンは目を細めた。
黒い外套。
漆黒の長髪。
紫の瞳。
アリア・ナイトシェイド。
シャドウ隊長。
エクリプス教団最強の暗殺者だった。
森の空気が一気に冷える。
昨夜の戦いが脳裏に蘇る。
シオンは一歩前へ出た。
「またお前か」
アリアは答えない。
ただ静かに立っている。
殺気はある。
だが昨夜のような鋭さがない。
まるで何かを迷っているようだった。
そして次の瞬間。
彼女は小さな袋を放った。
袋は地面に落ち、中から薬草が転がり出る。
全員が固まった。
数秒の沈黙。
シオンがようやく口を開く。
「……は?」
アリアは短く言った。
「治療用」
意味が分からなかった。
敵だ。
しかも暗殺者。
昨日まで殺そうとしていた相手が、今日は薬を届けに来た。
理解不能だった。
シオンは眉をひそめる。
「何のつもりだ」
アリアは答えない。
答えられなかった。
なぜ自分がここにいるのか。
なぜ薬を持ってきたのか。
本人にも分からなかった。
本来なら今この瞬間に全員を始末するべきだ。
それが任務。
それが使命。
それが生きる意味。
それなのに。
できなかった。
シオンを見るたび胸の奥が痛む。
忘れたはずの何かが疼く。
思い出せない。
だが確かに存在する。
アリアは視線を逸らした。
「お前を見ると……」
声が震える。
「思い出しそうになる」
ルナリアが反応した。
「記憶……?」
アリアは答えない。
だが、その表情は明らかに苦しんでいた。
シオンはそんな彼女を見つめていた。
そしてその瞬間。
胸の奥で黒星晶が脈動する。
ドクン――。
世界が揺らぐ。
視界が歪む。
景色が溶ける。
そして。
知らないはずの光景が流れ込んできた。
暗い部屋。
冷たい石床。
錆びた鎖。
幼い少女。
膝を抱え、震えている。
泣いている。
怯えている。
誰も助けてくれない。
誰も名前を呼ばない。
誰も必要としてくれない。
その少女の前に、一人の少年が現れた。
黒髪。
蒼い瞳。
少年は何も言わない。
ただ手を差し伸べる。
少女は涙を流しながらその手を握った。
『ありがとう』
その声だけが残った。
映像が途切れる。
シオンは息を呑んだ。
目の前のアリアも同じように目を見開いている。
彼女も見たのだ。
同じ記憶を。
同じ光景を。
そして理解してしまった。
記憶の中の少女はアリア。
そして。
その少女に手を差し伸べた少年は――。
シオンだった。
「何なの……」
アリアの声が震える。
感情を捨てたはずの暗殺者。
誰よりも冷酷であるはずの女。
その瞳が揺れていた。
消された記憶。
失われた過去。
そしてシオン。
全てが繋がりそうで繋がらない。
その時だった。
森全体を揺らす轟音が響いた。
ドォォォォォォン!!
爆発。
衝撃。
鳥たちが一斉に飛び立つ。
ガルドの顔色が変わった。
「来たか」
シオンも気付く。
無数の気配。
大量の殺気。
包囲されている。
木々の間から次々と現れる黒い影。
仮面。
短剣。
黒装束。
シャドウ部隊。
十。
二十。
三十。
いや、それ以上。
森全体が暗殺者で埋め尽くされていた。
その先頭に立つ男が前へ出る。
仮面の奥から冷たい声が響く。
「隊長」
アリアは振り向かない。
男は続けた。
「任務違反です」
森が静まり返る。
「対象の排除を確認できません」
「直ちに任務を遂行してください」
誰も動かない。
シオンも。
ルナリアも。
エリナも。
ガルドも。
全員がアリアを見ていた。
彼女が何を選ぶのか。
それを待っていた。
アリアは静かに振り返る。
シオンを見る。
ルナリアを見る。
エリナを見る。
ガルドを見る。
そしてシャドウ達を見る。
手が短剣の柄へ伸びる。
任務。
命令。
暗殺者としての人生。
全てがそこにある。
だが。
胸の奥に残った温もりが消えない。
暗闇の中で差し伸べられた手。
自分の名前を呼んでくれた誰か。
忘れてしまった大切な記憶。
もし今ここでシオンを殺せば。
二度と取り戻せない。
そんな確信があった。
長い沈黙。
風が吹く。
木々が揺れる。
そしてアリアは静かに口を開いた。
「断る」
その一言は森全体を凍り付かせた。
仮面の暗殺者たちが息を呑む。
ガルドも目を細める。
ルナリアは驚愕し。
シオンは黙ったまま彼女を見つめていた。
シャドウ隊長。
教団最強の暗殺者。
感情を捨てた処刑人。
その彼女が今、自ら命令に背いた。
もう後戻りはできない。
アリア・ナイトシェイドは、この瞬間――
初めて自分自身の意志で刃を選んだのだった。
そして森の奥で。
新たな殺気が目覚める。
教団は決して裏切りを許さない。
アリアが選んだ答えは、やがて彼女自身を追い詰めることになる。
シオンとアリア。
失われた記憶。
交差する運命。
そして迫り来る新たな敵。
全ては次なる戦いへと繋がっていく




