失われた記録
王都セレスティア地下深く。
王城のさらに下。
歴史研究院の地下施設よりも深い場所。
そこには王族ですら立ち入りを禁じられた封印区画が存在していた。
禁書領域最深部。
数千年前から誰も足を踏み入れていないと言われる場所。
星晶灯すら存在しない。
光の届かない闇だけが支配する世界。
静寂だけが永遠に続いていた。
だが、その中心では。
一基の古びた石碑だけが、淡く蒼白い光を放っていた。
石碑へ刻まれた文字は、現在のどの言語とも一致しない。
世界再生以前。
さらにその遥か昔。
世界そのものが誕生した時代の文字。
誰にも読めない。
読むことを許されない文字だった。
その石碑の前へ、一人の少年が立っている。
雪のように白い髪。
深紅の瞳。
幼い外見とは裏腹に、その瞳には途方もない年月が刻まれていた。
少年は石碑を静かに見上げ、小さく息を吐く。
「……長かったな。」
誰へ向けた言葉でもない。
三年。
いや。
彼にとっては、それ以上の時間だった。
ゆっくりと右手を伸ばす。
石碑へ指先が触れた瞬間だった。
ゴォォォ……
低い振動が空間を震わせる。
石碑全体へ蒼白い光が走った。
古代文字が次々と浮かび上がる。
失われた言語。
忘却された歴史。
誰にも解読できない記録。
しかし少年だけは違った。
その文字を当然のように読み上げる。
「第三世界。」
「観測記録。」
「黒星王。」
「管理者権限凍結。」
「記録復元開始。」
最後の一節を口にした瞬間。
ドクン。
石碑が鼓動した。
まるで巨大な心臓が目覚めたようだった。
「やっぱり反応したか。」
少年は静かに笑う。
石碑の背後。
何もなかった空間がゆっくりと裂け始めた。
バキッ──
青白い亀裂。
その奥から眩い蒼い光が溢れ出す。
空気が変わる。
時間の流れさえ歪み始める。
「久しぶりだな。」
少年は迷うことなく裂け目へ足を踏み入れた。
その先に広がっていたのは海だった。
だが普通の海ではない。
水ではなく光でできた海。
無数の記憶が波となって揺れている。
過去。
現在。
未来。
すべてが混ざり合う世界。
記憶の海。
管理者たちでさえ恐れた禁忌領域だった。
「まだ残っていてくれたか。」
少年は静かに周囲を見渡す。
光の波が足元を流れる。
その一つ一つが世界の歴史だった。
「もう少しだ。」
誰かへ語りかけるように呟く。
「もう少しで、お前は帰れる。」
その頃。
王立歴史研究院。
最上階の一室では、ルナリアがまだ眠れずにいた。
窓辺へ腰掛け、禁書を抱きしめている。
窓の外には満月。
部屋へ静かな月明かりが差し込んでいた。
「眠れない……。」
ぽつりと呟く。
胸の鼓動だけが落ち着かない。
昼間に見た文字。
最後の英雄。
そして耳元で聞こえた、あの優しい声。
「あれは……夢じゃない。」
確信だけが残っている。
本当に誰かがいた。
本当に誰かが自分を呼んでいた。
そう思えてならなかった。
ルナリアはもう一度禁書を開く。
空白だったページ。
しかし今夜は違う。
白い紙へ淡い文字が浮かび始める。
滲むように。
夢を見るように。
『忘却は完全ではない』
ルナリアは思わず息を呑んだ。
「文字が……。」
さらに続く。
『魂は記録を超える』
その瞬間。
胸が締め付けられる。
息が苦しい。
涙が止まらない。
理由は分からない。
それでも、この言葉を知っている気がした。
「あなたは……。」
震える声。
「誰なの……。」
返事はない。
静かな時間だけが流れる。
その時。
涙が一滴、本の上へ落ちた。
パタン。
禁書が眩く輝く。
銀色の光が部屋を包み込んだ。
「っ!」
ルナリアの視界が白く染まる。
脳裏へ映像が流れ込んだ。
白い花畑。
満月。
優しく吹く風。
そして。
黒髪の少年。
蒼い瞳。
自分へ向けて笑っている。
その笑顔を見た瞬間。
ルナリアの心臓が強く跳ねた。
「シ……。」
唇が動く。
あと少し。
あと一文字。
その名前を口にできた瞬間。
ズキッ!
激しい頭痛が走る。
「あっ……!」
世界が拒絶している。
思い出させまいとしている。
何かが記憶へ鍵を掛けている。
ルナリアは額を押さえ、その場へ膝をついた。
「どうして……。」
涙が止まらない。
「どうして名前だけ……。」
思い出せない。
けれど確信だけは残った。
自分は誰かを忘れている。
何よりも大切な人を。
その頃。
世界の外側。
観測者領域。
シオンは静かに膝をついていた。
全身傷だらけ。
呼吸も荒い。
肩からは血が流れ続けている。
それでも。
その顔には小さな笑みが浮かんでいた。
「届いた。」
小さく呟く。
「感じた。」
ルナリアの存在を。
魂の繋がりを。
世界が忘れても。
記録が消えても。
魂だけは消えなかった。
「ありがとう。」
自然と笑みが零れる。
だが、その静かな時間は長く続かなかった。
白い光が空間を裂く。
再編集執行官AE-01。
その背後には。
十体。
百体。
千体。
無数の管理者が静かに並んでいた。
「対象確認。」
「異常継続。」
「再編集を開始する。」
無数の光槍が展開される。
シオンはゆっくり立ち上がる。
「またか。」
肩を回し、小さく笑う。
「飽きないな、お前たち。」
当然返事はない。
黒星晶の残滓が再び舞い始める。
黒い粒子が身体を包む。
「来い。」
蒼い瞳が真っ直ぐ敵を見据える。
「何度でも相手になってやる。」
その瞬間だった。
観測者領域最深部。
誰も踏み込めない最古の封印領域で。
巨大な扉が静かに軋んだ。
ギギギ……
第一観測世界。
最初の文明。
最初の滅亡。
すべての始まりが眠る場所。
封印がゆっくりと解かれ始めていた。
そして。
記憶の海の最奥。
白髪の少年は静かに振り返る。
その瞳の前には、無数の歴史が浮かんでいた。
滅びた文明。
崩壊した世界。
何度も繰り返された終焉。
そして、そのすべてで最後まで戦い続けた一人の少年。
黒髪の英雄。
シオン・アルヴィス。
白髪の少年は穏やかに微笑む。
「もうすぐだ。」
赤い瞳が静かに輝いた。
「もうすぐ全部思い出す。」
その言葉とともに。
記憶の海の最奥。
誰にも開かれることのなかった最後の扉が、静かに音を立てて開き始めた。




