「消えない傷跡」
夜は静かに更けていた。
王立歴史研究院の最上階にある寮室には、月明かりだけが差し込んでいる。
窓の外では満月が王都セレスティアを淡く照らし、昼間の喧騒が嘘のような静寂が街を包み込んでいた。
だが、ルナリアだけは眠ることができなかった。
ベッドに横になっても瞼は閉じない。
胸の奥に残る違和感が、どうしても消えないのだ。
昼間に見つけた禁書。
削り取られていた人影。
少しずつ消えていく文字。
そして地下で感じた、あの得体の知れない鼓動。
どれも頭から離れなかった。
「どうして……。」
誰に問いかけるでもなく、小さく呟く。
返事はない。
静かな夜が続くだけだった。
ルナリアはゆっくりと起き上がり、窓辺へ歩み寄る。
満月を見上げた、その瞬間だった。
胸の奥が熱く脈打つ。
「……っ!」
鋭い痛みが全身を貫いた。
思わず胸を押さえ、その場に膝をつく。
鼓動が速い。
呼吸が乱れる。
次の瞬間、視界が真っ白に染まった。
部屋が消える。
夜空が消える。
風の音さえ遠ざかっていく。
そして、ルナリアは知らない世界へ立っていた。
どこまでも続く白い花畑。
月光を浴びた無数の花々が風に揺れ、銀色の波のように広がっている。
優しい風が頬を撫でた。
初めて見る景色。
それなのに、不思議なほど懐かしい。
胸が締めつけられる。
「ここ……。」
ゆっくり歩き始める。
花びらが足元で舞う。
その一枚一枚に触れるたび、忘れていたはずの感情が胸の奥から込み上げてくる。
その時だった。
どこからか笑い声が聞こえた。
優しく、温かな笑い声。
ルナリアは勢いよく振り返る。
花畑の向こうに、一人の少年が立っていた。
黒髪。
蒼い瞳。
穏やかな笑顔。
だが、その顔だけが霞んで見えない。
まるで世界そのものが、その存在を隠しているかのようだった。
「あなたは……誰?」
震える声で問いかける。
少年は何も答えない。
ただ優しく笑っている。
その笑顔を見ただけで、涙が込み上げてきた。
理由は分からない。
けれど、この人を知っている。
忘れたことなど、一度もなかった。
そう思えた。
ルナリアは一歩、また一歩と歩み寄る。
「お願い……。」
手を伸ばす。
「思い出させて。」
少年は静かに頷いた。
そして、優しい声で彼女の名を呼ぶ。
『ルナリア。』
その瞬間、世界から音が消えた。
心臓が大きく脈打つ。
この声を知っている。
ずっと昔から。
誰よりも近くで聞いていた声。
忘れていたのではない。
忘れさせられていたのだ。
「あなたは……。」
声が震える。
「私は、あなたを知ってる……。」
少年は微笑みながら答えた。
『やっと笑ったな。』
その一言だけで、ルナリアの瞳から涙が溢れ出した。
止まらない。
どうしてこんなにも会いたかったのか。
どうして名前だけが思い出せないのか。
胸が張り裂けそうだった。
「お願い……。」
ルナリアは必死に手を伸ばす。
「行かないで……。」
あと少し。
あと少しで届く。
その時だった。
バキィィィン――!!
空が砕けた。
満月が割れる。
花畑が崩れ始める。
世界そのものが音を立てて壊れていく。
「いやっ!!」
ルナリアは叫んだ。
少年の姿が黒いノイズに包まれていく。
「待って!」
「お願い!」
「消えないで!」
それでも少年は最後まで穏やかに笑っていた。
『大丈夫。』
優しい声だった。
『また会える。』
その言葉を最後に、世界は光の中へ砕け散った。
「っ!!」
ルナリアは勢いよく飛び起きた。
息が苦しい。
全身が汗で濡れている。
頬には涙が流れた跡が残っていた。
窓の外では、夜明け前の月が静かに輝いている。
「夢……じゃない。」
震える声が部屋に響く。
胸の奥の痛みだけが、現実であることを教えていた。
ルナリアは夢の中で聞いた名前を思い出そうとする。
「シ……。」
その瞬間、激しい頭痛が襲った。
「うっ……!」
視界が揺れる。
世界が拒絶する。
記憶が再び閉ざされていく。
「どうして……。」
膝を抱え、涙を流す。
「どうして思い出せないの……。」
その時、一筋の青白い光が夜空を横切った。
流れ星ではない。
王都の遥か上空で静かに輝き、誰かを見守るように佇んでいる。
ルナリアはその光を見つめ、小さく呟いた。
「……あなたなの?」
もちろん返事はなかった。
青い光は静かに夜空へ溶けていく。
同じ頃――王都地下最深部。
誰も立ち入ることを許されない封印領域で、一枚の古代石碑がゆっくりと輝きを増していた。
刻まれた古代文字が浮かび上がり、その中央に一つの言葉が現れる。
『黒星王』
さらに、その下へ新たな文字が刻まれ始めた。
誰も読めない文字。
誰も知るはずのない名前。
それでも世界だけは知っている。
忘れられた英雄の、本当の名を。
石碑は長い眠りから目覚めるように静かに光を放つ。
消された記憶。
失われた歴史。
封印された英雄。
そのすべてが、ゆっくりと世界へ戻ろうとしていた。




