「空白の記録」
その日の夕方だった。
王立歴史研究院の最上階特別書庫は、夕日に照らされ茜色に染まっていた。
窓の外では世界樹アストレアの巨大な枝葉が風に揺れ、赤く染まった空の下で静かにざわめいている。
昼間まで多くの研究員が行き交っていた館内も、今では人影はほとんどない。
広大な書庫には、本のページをめくる音だけが静かに響いていた。
ルナリア・セレスは机に置かれた一冊の禁書を見つめていた。
世界再生後に発見された正体不明の記録。
作者不明。
年代不明。
出所不明。
世界中の歴史学者が調査を重ねても、その正体は何一つ解明されていない。
それでもルナリアは、この本だけは手放すことができなかった。
何度も読み返しているのに、そのたびに胸の奥が締め付けられる。
そして今日も、違和感は確信へと変わろうとしていた。
「……また。」
思わず小さく呟く。
昨日まで文章が残っていたページ。
確かに存在していた記録。
それが、まるで最初から何も書かれていなかったかのように白紙へ変わっていた。
最初は見間違いだと思った。
疲れているだけだと思った。
だが違う。
読むたびに。
少しずつ。
確実に。
この本から何かが消えている。
それも偶然ではない。
誰かの存在だけを狙うように。
ルナリアは震える指先で白紙になったページへ触れた。
その瞬間だった。
胸に鋭い痛みが走る。
「っ……!」
息が詰まり、視界が白く染まる。
世界がゆっくりと揺れ始めた。
風が吹く。
どこまでも青い空。
白い花が一面に咲き誇る草原。
優しい風に花びらが舞い上がる。
その先に、一人の少年が立っていた。
黒髪。
細身の後ろ姿。
こちらへ振り返ろうとしている。
懐かしい。
初めて見るはずなのに、胸が苦しくなるほど懐かしい。
「待って……!」
ルナリアは思わず手を伸ばした。
しかし少年の顔だけが黒い靄に覆われ、輪郭が崩れていく。
景色が歪む。
映像が砕ける。
記憶そのものが拒絶されるように、すべてが闇へ飲み込まれた。
「今のは……。」
我に返ると、ルナリアは荒い呼吸を繰り返していた。
鼓動が速い。
額には汗が浮かんでいる。
夢ではない。
幻覚でもない。
あれは確かに、自分の記憶だった。
それなのに、一番大切なはずの顔だけが思い出せない。
その時、静かな足音が書庫へ響いた。
「まだ帰ってなかったのか。」
聞き慣れた声だった。
ルナリアが振り返ると、黒い外套を羽織ったアリア・ナイトシェイドが立っていた。
腰には愛用の双剣。
任務帰りなのだろう。
鋭い眼差しは変わらないが、以前より表情には柔らかさがあった。
「アリア。」
「また禁書を読んでいたのか。」
「うん。どうしても気になって。」
アリアは机へ近付き、本へ視線を落とす。
そして静かに眉をひそめた。
「また増えてるな。」
「え?」
「空白だ。」
ルナリアは急いで本を覗き込む。
アリアが指差した場所も、昨日まで文字が残っていたページだった。
「昨日は……ここに名前があった気がする。」
アリアは静かに呟く。
「覚えてるの?」
「文字は思い出せない。でも、誰かの名前だったことだけは分かる。」
その一言で、ルナリアの胸が強く痛んだ。
誰か。
とても大切だった誰か。
それなのに、どうしても思い出せない。
「アリア……私たち、本当に何か忘れてるのかな。」
しばらく沈黙が流れる。
夕焼けに染まった世界樹を見つめながら、アリアはゆっくり口を開いた。
「忘れているんじゃない。」
ルナリアが顔を上げる。
「消されている。」
その短い言葉が、書庫の空気を一瞬で冷たく変えた。
ルナリアは白紙になったページを見つめる。
誰かがいた。
確かにそこに存在していた。
それなのに、その存在だけが世界から消されようとしている。
その時だった。
コトッ。
本棚の奥から小さな音が響いた。
二人は同時に振り向く。
誰もいない。
静寂だけが広がっている。
数秒後、一冊の古びた本が棚から落ちた。
誰も触れていない。
自然に落ちるような場所でもない。
ルナリアはゆっくり歩み寄り、本を拾い上げた。
朽ちかけた表紙には題名が残っていない。
恐る恐るページを開く。
そこには一枚の古い挿絵が描かれていた。
白い花畑。
満月。
そして二人の人影。
一人は間違いなく自分だった。
しかし隣に立つ人物だけが、何者かによって削り取られていた。
顔も。
姿も。
名前も。
存在そのものが消されたように。
「どうして……。」
ルナリアの瞳が潤む。
知らないはずなのに。
忘れているはずなのに。
胸だけが、その人物を覚えていた。
その瞬間だった。
ドクン――。
世界が鼓動した。
巨大な心臓が脈打ったような衝撃が、一瞬だけ全身を駆け抜ける。
「今の……。」
「感じた。」
アリアも静かに頷いた。
異変は一瞬で終わる。
だが二人は確信していた。
世界のどこかで、何かが目を覚まし始めている。
同じ頃、王都セレスティア地下最深部。
誰の立ち入りも許されない封印区画で、一基の古代石碑が青白い光を放ち始めていた。
石碑に刻まれた古代文字がゆっくりと浮かび上がる。
静かな機械音が暗闇へ響く。
『観測記録、再起動』
『欠損データ検索開始』
『適合者反応確認』
『記憶修復率……〇・〇〇一%』
最後に、一つの文字だけが静かに輝いた。
『黒星王』
その名は、本来この世界から消え去ったはずの名前だった。
歴史からも。
記録からも。
人々の記憶からも。
それでも世界だけは、その存在を完全には忘れていなかった。
夕焼けに染まる空を見上げながら、ルナリアは胸へ手を当てる。
「……あなたは、誰なの?」
答える者はいない。
それでも忘れられた英雄の物語は、静かに、そして確実に再び動き始めていた。




