「忘れられた世界」
空は青かった。
どこまでも澄み渡り、どこまでも穏やかな青空だった。
世界樹アストレアの枝葉を優しい風が揺らし、大陸全体へ柔らかな光が降り注いでいる。
鳥たちは歌い、子どもたちは広場で笑い、市場では商人たちが明日の仕入れや家族の夕食について語り合っていた。
平和だった。
誰もが願った世界。
誰もが夢見た未来。
三年前、世界を覆った終焉はもう存在しない。
空を裂いた黒い亀裂も。
大地を呑み込んだ絶望も。
星喰いの恐怖も。
すべては歴史の彼方へ消え去っていた。
世界は救われた。
人々はそう信じている。
誰も疑わない。
朝が来ることを当然だと思い、明日が続くことを疑わない。
それが、この世界の新しい現実だった。
けれど。
本当にそうなのだろうか。
世界は本当に救われたのか。
失われたものは、本当に何もなかったのか。
誰も、その答えを知らない。
いや。
正確には、思い出せない。
忘れているのだ。
あまりにも大切だったはずの何かを。
あまりにも大切だったはずの誰かを。
王都セレスティア。
世界再生後に再建された白亜の都市は、今では世界最大の学術都市として栄えていた。
その中心に建つ王立歴史研究院は、世界各地から集められた書物、遺跡記録、古代文明の断片を保管する巨大施設だった。
高い天井。
どこまでも続く本棚。
磨き上げられた白い床。
窓から差し込む柔らかな陽光。
静寂に包まれた最上階の書庫で、一人の少女が本を読んでいた。
ルナリア・セレス。
銀色の長い髪。
澄み渡る蒼い瞳。
かつて世界の運命を握った少女。
今は王立歴史研究院に所属する若き研究者として、失われた歴史の調査に携わっている。
ページをめくる音だけが、静かな書庫に響いていた。
穏やかな時間だった。
誰もが羨むような、平和な日常。
だが、ルナリアはふと手を止めた。
胸が痛む。
理由はない。
本当に突然、胸の奥が締め付けられる。
まるで、大切な誰かを思い出そうとしているように。
けれど、その誰かが分からない。
顔も。
声も。
名前も。
何も思い出せない。
記憶の中に、ぽっかりと穴が開いていた。
何度確かめても。
何度振り返っても。
そこだけが見えない。
ルナリアはゆっくりと窓の外を見た。
青空が広がっている。
争いのない世界。
誰もが笑える世界。
それなのに、なぜだろう。
涙が出そうになる。
「……また。」
小さく呟いた声は、書庫の静けさに吸い込まれていった。
最近、この感覚が増えていた。
夜空を見るたび。
風の匂いを感じるたび。
誰かが隣にいた気がする。
誰かの声が聞こえそうになる。
けれど思い出せない。
名前も。
顔も。
交わした言葉も。
何も残っていない。
それなのに、その人が自分にとって何より大切だったことだけは、心が覚えていた。
「あなたは……誰なの……?」
返事はない。
ただ青空だけが、何も知らないように静かに広がっていた。
ルナリアは本を閉じた。
机の上には、一冊の禁書が置かれている。
三年前、世界再生後に発見された正体不明の記録。
作者不明。
年代不明。
出所不明。
だがそこには、世界再生以前の歴史が断片的に記されていた。
ルナリアは何度も読み返した。
何十回も。
何百回も。
それでも、違和感だけが消えなかった。
あるページだけ、文字が減っている。
最初から白紙だったわけではない。
確かに書かれていた。
昨日までは、そこに文章があった。
一昨日までは、もっと多くの記録が残っていた。
それなのに、読むたびに少しずつ消えていく。
まるで世界そのものが、その記録を書き換えているように。
「そんなこと……あるはずないのに。」
ルナリアは指先でページをなぞった。
そこには、何かが書かれていた痕跡だけが残っている。
文字の跡。
薄く残ったインクの影。
けれど読めない。
思い出せない。
分からない。
それなのに、胸だけが苦しかった。
まるで、自分が忘れてはいけない約束を破ってしまったような痛みだった。
その時だった。
背後から静かな足音が聞こえた。
振り返るまでもない。
誰なのか分かる。
「また読んでるのか。」
聞き慣れた声だった。
ルナリアが振り返る。
そこには一人の女性が立っていた。
黒い長髪。
鋭い赤い瞳。
漆黒の外套。
アリア・ナイトシェイド。
かつてエクリプス教団最強の暗殺者として恐れられた少女。
今では王国直属特殊任務部隊の隊長であり、王国最強戦力の一人として国民から英雄と呼ばれている存在だった。
三年前と変わらない。
いや、少しだけ変わった。
表情が柔らかくなった。
昔ほど尖っていない。
けれど、その瞳の奥には今も刃のような鋭さが残っていた。
「うん。」
ルナリアは小さく微笑んだ。
「どうしても気になって。」
アリアは机の上の禁書へ視線を落とした。
そして、眉をひそめる。
「また増えてるな。」
「え?」
「空白だ。」
ルナリアの表情が曇る。
アリアの指先が示した場所。
そこには昨日まで文章が残っていた。
確かに存在していた文字。
それが消えていた。
完全に。
何も残さず。
まるで、最初から存在しなかったかのように。
ルナリアの胸がざわつく。
「昨日は……ここに名前があった。」
アリアが静かに言った。
「覚えてるの?」
「文字の形までは覚えてない。」
アリアは本を見つめたまま続ける。
「でも、ここには誰かの名があった。」
その一言で、ルナリアの胸が強く痛んだ。
誰か。
大切な誰か。
けれど思い出せない誰か。
「アリア……私たち、何か忘れてるのかな。」
アリアはすぐには答えなかった。
窓の外で風が吹く。
白い雲が流れていく。
青空はどこまでも平和だった。
だが、その平和はどこか薄い膜のように頼りなかった。
やがてアリアは静かに口を開く。
「忘れているんじゃない。」
ルナリアが顔を上げる。
アリアの赤い瞳が、白紙のページを見つめていた。
「消されている。」
その言葉に、書庫の空気が冷たくなった。
ルナリアは禁書へ視線を落とす。
白紙のページ。
消えた文字。
消えた名前。
そして胸の奥に残る、理由のない涙。
これは普通ではない。
誰かが消されている。
何かが隠されている。
そして、その中心にはきっと、自分たちが忘れてしまった何かがある。
いや。
忘れてはいけなかった誰かがいる。
ルナリアは胸元へ手を当てた。
心臓が静かに震えている。
「思い出さなきゃ……。」
声は小さかった。
だが、その瞳には確かな決意が宿っていた。
アリアも静かに頷く。
「私も調べる。」
「ありがとう。」
「礼はいらない。」
アリアは窓の外を見つめた。
再生された世界。
平和になったはずの未来。
だが、その裏側で、誰にも知られることなく違和感は少しずつ広がり始めていた。
消えゆく記録。
思い出せない名前。
胸に残る理由のない喪失感。
世界は何かを忘れている。
いや――誰かを忘れさせられている。
その真実を、この時のルナリアたちはまだ知らなかった。
ルナリアは白紙になったページを見つめたまま動けなかった。
胸の奥が締め付けられる。
苦しい。
理由は分からない。
それでも、その空白には自分にとって何より大切なものが書かれていた――そんな確信だけが残っていた。
「消されているって……どういうこと?」
ルナリアは震える声で尋ねた。
アリアはゆっくりと禁書を閉じる。
「私にも分からない。」
短い返事だった。
だが、その表情には珍しく迷いが浮かんでいた。
「世界再生後、この本は何度も調査された。」
「魔術師も。」
「歴史学者も。」
「星晶学者も。」
「誰一人、この現象を説明できなかった。」
ルナリアは白紙のページを指でなぞる。
そこには確かに何かが書かれていた。
そんな気がしてならない。
「最初は書き間違いかと思った。」
アリアが静かに続ける。
「だが違った。」
「読むたびに消えていく。」
「まるで……」
そこで言葉が止まる。
ルナリアが続きを待つ。
アリアは小さく息を吐いた。
「誰かの存在そのものが、世界から削除されているみたいだ。」
書庫が静まり返る。
窓の外では鳥たちが楽しそうにさえずっている。
平和そのものの景色だった。
なのに、この部屋だけは別世界のようだった。
ルナリアは再び胸へ手を当てる。
鼓動が速い。
何かを思い出しそうになるたび、記憶の奥に霧がかかる。
「私……誰かと約束した気がする。」
アリアが顔を上げる。
「約束?」
「うん。」
ルナリアは目を閉じた。
「思い出せない。」
「でも……誰かが笑ってた。」
「誰かと一緒に空を見てた。」
「その人の隣が、すごく安心できた気がするの。」
涙が一筋、頬を伝う。
「なのに……。」
「顔も思い出せない。」
「名前も思い出せない。」
「こんなの、おかしいよ……。」
アリアは黙ってルナリアの肩へ手を置いた。
何も言わない。
慰めの言葉もない。
だが、その温もりだけで少しだけ心が落ち着いた。
その時だった。
コンコン。
書庫の扉が静かに叩かれた。
「失礼します。」
若い研究員が顔を覗かせる。
「ルナリア主任。」
「王城から使者が来ています。」
「会議の時間です。」
ルナリアは涙を拭い、小さく頷いた。
「すぐ行きます。」
研究員は一礼すると静かに立ち去った。
再び静寂が戻る。
アリアは窓の外を見つめながら口を開いた。
「最近、王都でも妙な噂が増えている。」
「噂?」
「理由もなく涙を流す者。」
「夜空を見て誰かの名前を呼ぶ者。」
「夢の中で見知らぬ少年を見る者。」
ルナリアは思わず息を呑んだ。
「それって……。」
「偶然とは思えない。」
アリアは低く呟く。
「世界全体で同じことが起きている。」
「誰も思い出せない。」
「それでも心だけが覚えている。」
ルナリアは窓の外へ目を向けた。
青い空。
白い雲。
平和な王都。
どこを見ても幸せそうな人々ばかりだ。
それなのに。
この世界は、本当に完成した世界なのだろうか。
「アリア。」
「何だ。」
「もし、本当に誰かが消されたんだとしたら。」
ルナリアは静かに問いかける。
「その人は……今どこにいるのかな。」
アリアは答えなかった。
答えられなかった。
自分も同じことを考えていたからだ。
その頃――
王都セレスティアから遥か離れた場所。
誰も近づかない雪山の頂。
吹雪の中、一人の老人が夜空を見上げていた。
長い白髪。
深く刻まれた皺。
その瞳だけは鋭く、何かを見通しているようだった。
老人の前には古びた石碑が立っている。
石碑には名前が刻まれていた。
だが、その文字だけが黒く塗り潰され、読むことができない。
老人は静かに石碑へ触れた。
「……また一人、忘れたか。」
悲しげな声だった。
「世界は優しい。」
「だから残酷だ。」
「救われるために、一人を消した。」
吹雪が強くなる。
老人は目を閉じ、小さく呟いた。
「お前は今も戦っているのか。」
「誰にも覚えられないまま。」
その瞬間だった。
老人の胸元で、小さな青い結晶が淡く光を放つ。
まるで、どこか遠くの誰かへ応えるように。
老人は空を見上げる。
「時間がない。」
「世界は再び動き始める。」
「忘れられた英雄が目覚める時、運命もまた動き出す。」
一陣の風が雪を巻き上げた。
その風は王都へ吹き抜ける。
世界樹を揺らす。
そして、王立歴史研究院の窓辺に立つルナリアの髪を優しく撫でた。
その風に乗って、誰かの声が聞こえた気がした。
『……ルナリア。』
一瞬だった。
振り返っても誰もいない。
幻聴だったのかもしれない。
それでも彼女は胸を押さえる。
涙が止まらなかった。
「あなたは……誰?」
その問いに答える者はいない。
青空だけが静かに広がり、世界は何事もなかったように今日という一日を始めていた。
誰も知らない。
誰も思い出せない。
それでも、世界のどこかで失われた運命は確かに動き始めている。
忘れられた英雄。
その名が再び世界へ刻まれる日は、もう遠くなかった。




