「最後の夜」
夜は静かだった。
世界が終わろうとしているとは思えないほどに。
風が吹く。
世界樹アストレアの葉が揺れる。
遥か下では避難作業が続いている。
研究員達も。
騎士達も。
市民達も。
誰もが迫り来る終焉に備えていた。
だが。
今だけは。
ほんの少しだけ。
静かな時間が流れていた。
シオンは一人で世界樹の展望台へ来ていた。
眠れなかった。
終末が近いからではない。
考えることが多すぎたからだ。
ノクスとの記憶。
最初の観測者。
管理者ゼノア。
星喰い。
そして。
ルナリア。
空を見上げる。
赤い瞳は依然として世界を見下ろしている。
巨大な亀裂も広がり続けている。
明日には戦いが始まる。
誰かが死ぬかもしれない。
もしかしたら自分も。
そんな考えが頭を過った時だった。
「やっぱりここにいた」
優しい声。
振り返る。
ルナリアだった。
銀髪が月明かりに照らされている。
蒼い瞳。
柔らかな笑顔。
その姿はまるで月の化身のようだった。
シオンは少し笑う。
「お前も寝てないのか」
ルナリアは隣へ歩いてくる。
「眠れなくて」
それは本当だった。
だが。
理由は違う。
シオンは知らない。
彼女がどんな決意を抱えているのか。
まだ。
何も。
二人は並んで空を見る。
しばらく誰も喋らなかった。
沈黙は不思議と苦ではなかった。
昔からそうだった。
出会った頃から。
言葉がなくても落ち着ける相手だった。
ルナリアが小さく笑う。
「覚えてる?」
「何を」
「最初に会った時」
シオンは吹き出した。
「あれか」
処刑台。
暴れる教団兵。
逃走劇。
今思えば酷い出会いだった。
「普通は助けないよね」
ルナリアが笑う。
「知らない女の子のために教団に喧嘩売るなんて」
「確かに」
「馬鹿だよね」
「否定できねぇ」
二人は同時に笑った。
その笑顔を見ているだけで。
ルナリアの胸が苦しくなる。
幸せだった。
この時間が。
何気ない会話が。
隣にいることが。
だからこそ。
失いたくなかった。
「シオン」
「ん?」
ルナリアは少し迷った。
言うべきか。
言わないべきか。
今ならまだ間に合う。
全てを話せる。
月の民の使命も。
世界再生装置も。
自分が世界を救う鍵であることも。
だが。
言えなかった。
シオンは絶対に止める。
世界よりも。
自分を選ぶ。
そんな人だから。
「どうした?」
心配そうな顔。
その優しさが痛かった。
ルナリアは微笑む。
「何でもない」
また嘘をついた。
今日だけで何度目だろう。
シオンは納得していない顔だった。
だが。
それ以上は聞かなかった。
聞けば彼女が困ることを知っていたから。
風が吹く。
月明かりが二人を照らす。
その時だった。
ルナリアがぽつりと言う。
「もし」
シオンが振り向く。
「もし全部終わったらさ」
「おう」
「何したい?」
唐突な質問だった。
だが。
シオンは少し考えて答える。
「寝る」
ルナリアは吹き出した。
「それだけ?」
「めちゃくちゃ寝る」
「夢がないなぁ」
「じゃあお前は」
ルナリアは空を見上げた。
本当なら。
未来なんて考えちゃいけない。
もう決めているのだから。
それでも。
少しだけ夢を見たかった。
「旅がしたい」
静かな声。
「色んな国を見て」
「美味しい物食べて」
「綺麗な景色を見て」
「みんなで笑いたい」
シオンは笑う。
「叶えようぜ」
その言葉に。
胸が締め付けられた。
叶わない。
たぶん。
自分には。
それでも。
ルナリアは笑った。
「うん」
嘘でも良かった。
今だけは。
信じたかった。
その未来を。
沈黙が訪れる。
穏やかな時間。
終末の前とは思えないほど優しい夜。
やがて。
ルナリアは立ち上がる。
「もう戻ろっか」
シオンも立ち上がる。
「ああ」
二人は歩き出す。
並んで。
いつも通りに。
だが。
ルナリアは少しだけ後ろを振り返った。
月を見る。
美しい満月。
そして。
心の中で静かに呟く。
ごめんね。
誰にも聞こえない声。
シオンにも。
仲間達にも。
届かない言葉。
それは。
まだ誰にも言えない別れの言葉だった。
夜は更けていく。
終末の時は近い。
そして。
月の少女は静かに決意を固めていく。
誰にも知られないまま。




