「月の巫女」
世界が軋んでいた。
空の亀裂はさらに広がり続けている。
星喰いの巨大な瞳は依然として世界を見下ろしていた。
誰もが恐怖していた。
誰もが終わりを感じていた。
だが。
その恐怖の中心で。
ルナリアだけは別の痛みと戦っていた。
胸元の月のペンダントが強く輝いている。
蒼白い光。
優しく。
温かく。
そして悲しい光だった。
ルナリアは静かに目を閉じる。
すると視界が白く染まった。
気が付くと。
彼女は再び花畑に立っていた。
満月が夜空を照らしている。
白い月花が風に揺れる。
静かな世界。
最初の月の巫女だけが待っていた。
セレネ。
銀髪の女性は優しく微笑む。
だが。
その表情には深い悲しみが宿っていた。
「また会えたわね」
ルナリアは小さく頷く。
「うん」
声が震えていた。
聞きたいことがある。
だが。
本当は聞きたくなかった。
答えを知ってしまうから。
セレネは全てを理解しているようだった。
「知りたいのね」
ルナリアは目を伏せる。
「私は何なの」
風が吹いた。
白い花々が揺れる。
長い沈黙。
そして。
セレネは静かに答えた。
「あなたは月の継承者」
その言葉は既に知っている。
だが。
本当に知りたいのはその先だった。
「それだけじゃない」
ルナリアが言う。
「もっとあるんでしょ」
セレネは悲しそうに微笑んだ。
そして。
ゆっくり頷く。
「そうね」
満月が揺れる。
世界が静まり返る。
「月の民は世界を守るために生まれた」
ルナリアは耳を傾ける。
「でも同時に」
セレネは空を見上げた。
「世界を終わらせるためにも存在している」
その言葉に。
ルナリアは拳を握った。
やはりそうだった。
どこかで分かっていた。
心の奥では。
ずっと。
「私が死ねば」
掠れた声。
セレネは目を閉じる。
そして。
小さく頷いた。
「世界再生装置は起動する」
沈黙。
花畑を風が吹き抜ける。
ルナリアは俯いた。
月花が涙で滲む。
「じゃあ私は」
声が震える。
「人間じゃないの?」
その問いに。
セレネはすぐに答えなかった。
ゆっくり近付く。
そして。
ルナリアの頭を優しく撫でた。
「違う」
温かい手だった。
母親のように。
「あなたは人間よ」
ルナリアの瞳が揺れる。
「だって私は」
「世界を救う装置じゃない」
セレネが言った。
「誰かを好きになった」
「誰かを守りたいと願った」
「誰かと笑いたいと思った」
蒼い瞳が真っ直ぐ向く。
「それは人間の心よ」
ルナリアの瞳から涙が零れ落ちる。
止まらなかった。
今までずっと怖かった。
自分が何者なのか。
自分が存在していていいのか。
分からなかった。
だが。
セレネは迷いなく言った。
「あなたはルナリア・セレス」
その名前が胸に響く。
「世界の鍵なんかじゃない」
「月の継承者なんかじゃない」
「あなた自身よ」
涙が溢れる。
泣きたくなかった。
強くなりたかった。
でも。
もう我慢できなかった。
「怖いよ……」
初めて本音を口にした。
「死にたくない」
震える声。
「みんなといたい」
「シオンと……」
言葉が止まる。
セレネは優しく微笑んだ。
「好きなのね」
ルナリアの顔が赤くなる。
だが否定できなかった。
沈黙が答えだった。
セレネは少しだけ笑う。
「良かった」
ルナリアが顔を上げる。
「何が?」
「あなたがちゃんと人間で」
月の巫女はそう言った。
そして。
その笑顔が少しだけ寂しく見えた。
ルナリアは気付く。
セレネもまた。
同じ選択をしたのだと。
世界を守るために。
愛する人を残して。
一人で。
「辛かった?」
ルナリアが聞く。
セレネは空を見上げた。
満月が輝いている。
そして。
少しだけ笑った。
「とても」
その一言だけで十分だった。
何千年も前の少女も。
同じように泣いたのだ。
同じように苦しんだのだ。
同じように愛したのだ。
ルナリアは唇を噛む。
涙を拭う。
そして。
静かに立ち上がった。
まだ答えは出ていない。
まだ決断もしていない。
だが。
一つだけ分かった。
逃げることはできない。
自分だけが知る真実から。
自分だけが背負う運命から。
その時だった。
花畑の空が揺れる。
世界が崩れ始める。
現実世界からの呼び声。
シオンの声だった。
「ルナリア!」
セレネが微笑む。
「行きなさい」
ルナリアは振り返る。
「また会える?」
セレネは少しだけ考えた。
そして。
優しく笑った。
「あなたが選んだ未来でね」
世界が光に包まれる。
花畑が消えていく。
最後に見えたのは。
満月の下で微笑む最初の月の巫女だった。
そして。
ルナリアは現実へ戻る。
アストレア。
崩れゆく空。
迫り来る終焉。
仲間達。
シオン。
全てがそこにあった。
だが。
ルナリアの瞳だけは変わっていた。
覚悟ではない。
諦めでもない。
それは。
大切なものを守るために前を向こうとする強さだった。
しかしその胸の奥には。
まだ誰にも言えない秘密が残っていた。
世界を救うために必要な。
あまりにも残酷な真実が。




