「世界の敵」
失われた記憶の欠片が、静かに動き始めていた。
天空神殿エデンの玉座の間。
星喰融合将ノクス・ヴァーミリオンは、誰にも気付かれないほど僅かに眉を動かした。
胸の奥が痛む。
それは傷ではない。
星晶反応でもない。
星喰いの侵食でもない。
もっと曖昧で、もっと人間らしいものだった。
懐かしさ。
喪失。
後悔。
そんな感情が、黒い装甲の奥で微かに脈打っている。
「シオン……」
なぜ、その名を知っているのか。
分からない。
だが、その名前を口にした瞬間だけ、胸の奥に埋もれていた何かが熱を持った。
黒髪の少年。
蒼い瞳。
笑っていた。
怒っていた。
血まみれで立っていた。
そして最後には、何かを守るために消えていった。
そこまで見えた瞬間、記憶は霧のように崩れた。
ノクスは静かに目を閉じる。
思い出してはならない。
そう誰かに命令されている気がした。
だが同時に。
思い出さなければならない。
そう誰かに呼ばれている気もした。
「ノクス」
玉座から声が落ちた。
ゼノアだった。
黄金の瞳が、静かにノクスを見下ろしている。
その視線は神のように穏やかで、処刑人のように冷たかった。
「何か問題があるか」
玉座の間に、わずかな緊張が走る。
七星将達の視線がノクスへ集まる。
ノクスはゆっくりと膝をついた。
「問題ありません」
低い声だった。
感情はない。
少なくとも、そう聞こえた。
ゼノアはしばらくノクスを見つめていた。
そして、薄く笑う。
「ならばよい」
それだけだった。
だがノクスは感じていた。
ゼノアは気付いている。
自分の中に起きた微かな揺らぎを。
それでも問わなかった。
なぜなら、まだ利用価値があるからだ。
ノクスは顔を伏せたまま、拳を握る。
自分は何者なのか。
星喰融合将。
七星将最高戦力。
教団の剣。
それが今の自分。
では、胸の奥で呼んでいるこの名前は何だ。
シオン。
その名だけが、黒く塗り潰された記憶の底で光っていた。
その頃。
アストレア地下作戦室。
重い沈黙が落ちていた。
レオニクスが語った真実は、あまりにも残酷だった。
シオンは一度、世界を救った。
だがその代償として、誰も彼を覚えていない世界になった。
英雄は消えた。
記録にも残らず。
歴史にも刻まれず。
守ったはずの人々からも忘れられた。
それでも世界は続いた。
それが、最後の観測者の真実だった。
「……ふざけんなよ」
シオンが低く呟いた。
誰に向けた怒りなのか、自分でも分からなかった。
世界か。
運命か。
星喰いか。
それとも、そんな選択をした過去の自分か。
拳が震える。
黒星晶が胸の奥で脈打っている。
まるで、その怒りに呼応するように。
「俺は……」
言葉が詰まる。
自分が世界を救った。
そんな実感はない。
誰にも覚えられていない。
そんな記憶もない。
だが、胸の奥だけが知っている。
失ったのだ。
確かに。
何かを。
誰かを。
大切なものを。
ルナリアはシオンの横顔を見つめていた。
彼が何を思っているのか、全ては分からない。
だが、痛みだけは分かった。
自分の中に流れ込んだ月の継承者達の記憶。
何度も世界を救うために犠牲になった少女達。
その孤独と、シオンの孤独はどこか似ている。
だからこそ、胸が苦しかった。
「シオン」
ルナリアは静かに呼んだ。
シオンは振り向かない。
だが、彼女は続けた。
「私は覚えてる」
その言葉に、シオンの肩がわずかに動く。
「今のあなたを」
「私を助けてくれたことも」
「一緒に逃げたことも」
「何度も守ってくれたことも」
ルナリアは胸に手を当てる。
月光が淡く揺れた。
「たとえ世界が忘れても、私は忘れない」
沈黙。
シオンはゆっくりとルナリアを見る。
その瞳には黒星王の闇がまだ残っている。
だが奥には、確かに少年の弱さがあった。
「……簡単に言うなよ」
「簡単じゃないよ」
ルナリアは即答した。
「でも、言わなきゃいけないと思った」
シオンは目を伏せる。
その表情は、泣きそうにも、笑いそうにも見えた。
「変な奴だな」
「シオンに言われたくない」
ほんの少しだけ空気が緩む。
だが、その安堵は長く続かなかった。
作戦室全体が震えた。
低い振動。
続いて、壁に埋め込まれた星晶灯が一斉に赤く点滅する。
警報が鳴り響いた。
ビーッ。
ビーッ。
ビーッ。
研究員が叫ぶ。
「全世界通信に強制介入!」
「発信源、天空神殿エデン!」
レオニクスの顔色が変わる。
「まさか……」
次の瞬間。
空中に巨大な映像が投影された。
アストレアだけではない。
世界中の都市で。
村で。
王国で。
教会で。
空に同じ映像が浮かび上がっていた。
黄金の光。
白い玉座。
そして、その中央に立つ男。
最高司祭ゼノア・エクリシア。
彼は静かに世界を見下ろしていた。
その姿は神々しかった。
だからこそ、不気味だった。
ゼノアが口を開く。
『世界に告げる』
声は穏やかだった。
だがその奥に、逆らえない威圧があった。
『黒星王シオン・アルヴィスは、世界崩壊を招く災厄である』
シオンの表情が固まる。
ルナリアが息を呑む。
アリアが舌打ちした。
『黒星晶は救済の力ではない』
『それは世界法則を侵す禁忌』
『過去に幾度も世界を歪め、人類を滅亡の瀬戸際へ追いやった災厄である』
「嘘だ」
エリナが震える声で呟いた。
「シオンはそんなことしてない……!」
だが世界中の人々には分からない。
彼らが見ているのは、教団最高司祭の言葉。
世界最大の宗教組織が発する絶対の宣言。
真実かどうかなど関係ない。
多くの人間は、信じたいものを信じる。
そして今、世界は恐怖していた。
恐怖は、簡単に憎しみへ変わる。
ゼノアは続ける。
『月の継承者ルナリア・セレスは、世界再生の鍵である』
ルナリアの身体が震えた。
『彼女は人類救済のため、神聖教会の管理下に置かれなければならない』
『黒星王と共に行動する者は、人類への反逆者と見なす』
アリアが目を細める。
ガルドが大剣の柄を握る。
セラフィナは唇を噛んだ。
彼女は知っている。
教団が言う管理とは、保護ではない。
拘束。
洗脳。
利用。
そして使い潰すことだ。
ゼノアの黄金の瞳が、まるで直接シオン達を見ているかのように細められた。
『各国に命じる』
『黒星王を討伐せよ』
『月の継承者を確保せよ』
『抵抗する者は、例外なく世界の敵である』
世界中へ、その宣言が刻まれた。
その瞬間。
シオン達は正式に世界の敵となった。
作戦室に沈黙が落ちる。
誰もすぐには動けなかった。
重すぎる。
たった数分の演説で、世界は変わった。
昨日まで彼らは追われる者だった。
だが今は違う。
世界そのものが彼らを狙う。
国家も。
教団も。
賞金稼ぎも。
信仰に縋る民衆も。
全てが敵になる。
エリナが小さく呟く。
「こんなの……ひどいよ」
アリアは静かに答えた。
「これが教団のやり方」
その声には怒りがあった。
「殺すより簡単に人を追い詰める」
レオニクスは拳を握る。
「情報戦でも負けた」
ガルドが荒く息を吐く。
「で、どうする」
全員の視線がシオンへ向く。
シオンは黙っていた。
世界の敵。
その言葉が胸に重く沈む。
怖くないわけではない。
怒りだけで立っていられるほど単純でもない。
だが。
隣にルナリアがいる。
アリアがいる。
エリナがいる。
ガルドがいる。
セラフィナもいる。
誰かが見ている。
誰かが信じている。
それだけで、まだ折れずに済む。
シオンはゆっくりと顔を上げた。
「世界が敵になったなら」
静かな声だった。
だが、その奥には揺るがない意志があった。
「世界ごと救う」
ルナリアが目を見開く。
ガルドが笑った。
「言うと思ったぜ」
エリナも涙目で笑う。
「ほんと、馬鹿だね」
アリアは小さく息を吐いた。
「でも嫌いじゃない」
セラフィナは黙ってシオンを見ていた。
その瞳には、初めて小さな希望が宿っていた。
レオニクスは静かに頷く。
「ならば次に備える」
「来るのか」
シオンが問う。
レオニクスは険しい表情で空中映像を睨んだ。
「必ず来る」
「教団は宣言だけで終わらせない」
その言葉が終わるより早く。
天空神殿エデンの下部に、巨大な黒い魔法陣が展開された。
研究員が叫ぶ。
「転移反応!」
「規模、単体!」
「ですが反応値が異常です!」
レオニクスの顔色が変わる。
「まさか……」
アストレア上空。
黒い光が落ちてくる。
流星のように。
災厄のように。
そして。
その中心に、一人の男がいた。
黒い装甲。
黒い瞳。
星喰いの気配を纏う男。
七星将最高戦力。
星喰融合将。
ノクス・ヴァーミリオン。
彼は静かに地上を見下ろしていた。
その視線の先には、シオンがいる。
ノクスの胸の奥で、また何かが痛んだ。
理由は分からない。
だが。
名前だけは浮かぶ。
「シオン……」
黒い流星が、アストレアへ降りる。
世界の敵となった少年の前に。
かつての記憶を失った最強の将が、ついに現れようとしていた。




