契約者
「私は、止め続けていた。」
アストラの静かな言葉は、神域全体へゆっくりと響いた。
シオンは思わず眉をひそめる。
「どういう意味だ。」
アストラは契約樹へ視線を向ける。
その幹へ優しく手を添えると、無数の光が樹の中を流れ始めた。
「この樹は、すべての世界を繋ぐ心臓だ。」
「命が生まれ、巡り、そして新たな命へ受け継がれる。」
「その流れを維持するのが契約神である私の役目だった。」
「だった?」
シオンが問い返す。
「今は違うのか。」
「違う。」
アストラは静かに頷いた。
「私は、もう契約神ではない。」
その一言に、リーヴァが顔を上げた。
「そんな……。」
「契約神は一人しか存在できないはず。」
「その通りだ。」
アストラは苦く笑う。
「だから私は、契約神の座を奪われた。」
神域の空気が凍りつく。
オルフェウスが静かに拳を握り締めた。
「やはり……。」
「あなたは敗れたのですね。」
「敗れたというより、利用された。」
アストラは静かに首を振る。
「私は信じてしまった。」
「世界を救いたいという、あの男の願いを。」
シオンの瞳が鋭くなる。
「あの男?」
アストラはゆっくりと頷いた。
「彼は誰よりも優しかった。」
「誰よりも命を愛していた。」
「だから私は、契約の管理権限を一部だけ預けた。」
「それが、すべての始まりだった。」
神域の空間へ一枚の光景が映し出される。
数万年前。
まだ若いアストラが契約樹の前へ立っている。
その前には、一人の青年。
白銀の髪を持ち、穏やかな笑みを浮かべていた。
その青年はアストラへ深く頭を下げる。
『お願いします。』
『このままでは、また世界が滅びます。』
『契約を変えたいんです。』
若き日のアストラは迷っていた。
『契約は変えられない。』
『法則だからだ。』
『なら。』
青年は真っ直ぐ彼を見つめる。
『法則を管理する者が変えればいい。』
『あなたならできる。』
その言葉に、アストラは静かに目を閉じた。
そして――。
自らの権限の一部を、青年へ渡した。
映像はそこで途切れる。
長い沈黙が流れた。
ルナリアが小さく呟く。
「その人が……。」
「今の契約者?」
「いや。」
アストラは静かに首を横へ振る。
「最初は違った。」
「彼は、本当に世界を救おうとしていた。」
「だが。」
「契約へ触れ続けたことで、人ではいられなくなった。」
シオンはアダムの言葉を思い出していた。
『人であることを捨てただけだ。』
同じだった。
アダムも。
契約者も。
世界を救おうとして、少しずつ人間ではなくなっていった。
「……名前は。」
シオンが静かに尋ねる。
「その男の名前は何だ。」
アストラは少しだけ空を見上げた。
遠い昔を思い出すように目を細める。
「もう誰も呼ばない名だ。」
「それでも知りたいか。」
「知る。」
シオンは迷わなかった。
「どんな過去でも。」
「俺は受け止める。」
アストラは小さく笑う。
「君は、本当にエインによく似ている。」
そう言って、ゆっくりと口を開いた。
「彼の名は――」
その瞬間だった。
ズドォォォォォン!!
神域全体が激しく揺れた。
契約樹の幹へ巨大な亀裂が走る。
黄金だった樹液が黒く染まり、世界へ繋がる光の糸が次々と断ち切られていく。
「まずい!」
ノアが叫ぶ。
「契約樹が侵食されています!」
ルクスも演算を続けながら青ざめた。
「侵食率三十%……四十%……!」
「止まらない!」
神域の奥。
光が届かない深い闇の中から、ゆっくりと拍手が響いた。
パチ……。
パチ……。
パチ……。
その音は不気味なほど静かで、神域全体へ反響していく。
アストラの表情から笑みが消えた。
「来たか……。」
闇の中から一人の人影が姿を現す。
黒い法衣。
銀色の長髪。
右目は黄金。
左目は漆黒。
その姿を見た瞬間、オルフェウスが信じられないという表情で一歩後退した。
「嘘だ……。」
「お前は……。」
人影は静かに微笑む。
「久しぶりだね、オルフェウス。」
「私のことを忘れたわけではないだろう。」
シオンは剣を構えた。
その男から感じる気配は、アダムともアストラとも違う。
圧倒的な”底知れなさ”。
男はゆっくりとシオンへ視線を向け、優しく笑った。
「初めまして。」
「最後の継承者。」
「君に会える日を、ずっと待っていた。」
その微笑みの裏に隠された狂気を、シオンだけははっきりと感じ取っていた。




