終焉の海
《アーク》は静かに進み始めた。
帆は張られている。
だが風は吹いていない。
波もない。
それでも船だけが黄金の航路を滑るように進み続ける。
ギィ……
船体が小さく軋む音だけが、静寂の海へ響いていた。
シオンは船首へ立ち、黒い霧の向こうを見つめる。
「不思議だな。」
「何が?」
ルナリアが隣へ並ぶ。
「怖い場所のはずなのに。」
「どこか懐かしい。」
ルナリアも静かに海を見渡した。
「私も。」
「初めて来たはずなのに。」
「帰ってきたような気がする。」
ノアがその会話を聞いて頷く。
「終焉の海は。」
「全ての世界へ繋がっています。」
「命は死ねば星へ還る。」
「世界は滅べば、この海へ還る。」
「だから。」
「誰にとっても故郷のように感じるのです。」
ヴォルグは腕を組みながら海を覗き込む。
「何もいねぇじゃねぇか。」
「静かすぎて逆に落ち着かねぇ。」
レオニクスも周囲へ視線を巡らせる。
「警戒は続けよう。」
「管理者が通したからといって。」
「安全とは限らない。」
「それには同意。」
アリアは船尾へ移動しながら短剣を回す。
「こういう静けさの後って。」
「大体ろくなこと起きないし。」
その時だった。
ポタリ。
何かが船へ落ちる音がした。
全員が空を見上げる。
雨ではない。
空から降ってきたのは、一枚の写真だった。
「……写真?」
ステラが拾い上げる。
そこには若い夫婦と、小さな男の子が笑って写っていた。
誰も知らない家族。
裏には短く文字が書かれている。
『十八歳の誕生日、おめでとう。』
『父さんと母さんより。』
写真は静かに光となり、風もない空へ消えていった。
「今の……。」
ステラが目を丸くする。
ルクスが静かに答えた。
「滅んだ世界の記憶だ。」
「写真だけじゃない。」
「想いも。」
「願いも。」
「約束も。」
「全部、この海を漂っている。」
言葉が終わる頃には、空から無数の光が降り始めていた。
手紙。
花。
木彫りのおもちゃ。
折れた剣。
指輪。
絵本。
どれも誰かが大切にしていたものばかり。
《アーク》の周囲を静かに漂い、やがて海へ溶けていく。
ルナリアは一冊の絵本を手に取った。
開かれたページには、幼い字でこう書かれている。
『いつか世界の外を見に行こうね。』
読み終えた瞬間、絵本は淡い光になって消えた。
「全部。」
「叶わなかった願いなんだ。」
ルナリアは胸へ手を当てる。
シオンは黙って空を見上げた。
無数の願い。
無数の人生。
ここには英雄だけではなく、普通に生きた人々の一生が眠っている。
「だから始祖は。」
「絶対に世界を諦めなかったんだな。」
誰にも聞こえないほど小さな独り言だった。
その時だった。
《アーク》が突然止まる。
ギギギッ――。
「止まった!」
ヴォルグが船縁を掴む。
黄金の航路はまだ続いている。
それなのに船は一歩も進まない。
「何だ?」
シオンが船首へ歩く。
海を見た瞬間、その表情が変わった。
「……あれ。」
黄金の航路の先。
海面から何かがゆっくり浮かび上がっていた。
最初は岩だと思った。
違う。
街だった。
石造りの家々。
崩れた城壁。
時計塔。
神殿。
巨大な橋。
一つの都市が、そのまま海の底から姿を現していた。
「都市……。」
レオニクスが息を呑む。
「沈んだ世界か。」
ノアは静かに首を振る。
「違います。」
「世界じゃありません。」
「あれは。」
「一つの文明です。」
都市全体が海面へ姿を現す。
誰も住んでいない。
音もない。
しかし、不思議なことに街灯だけが今も青白く灯っていた。
ステラがシオンの服を掴む。
「誰かいる。」
全員が視線を向ける。
崩れた時計塔の頂上。
一人の少女が立っていた。
白いワンピース。
長い銀髪。
年齢はステラと同じくらい。
少女は静かにこちらを見つめている。
その瞳は澄んだ蒼色だった。
シオンは手を振る。
「君!」
少女は何も答えない。
ただゆっくりと右手を持ち上げる。
そして都市の中央を指差した。
その瞬間。
ゴォォォォォォォ――――!!
沈んでいた都市全体が激しく揺れ始める。
海底から無数の黒い腕が伸び、街そのものを再び海へ引きずり込もうとしていた。
少女は初めて口を開く。
その声は泣いているように震えていた。
「……助けて。」
その一言だけを残し、少女の姿は黒い霧へ呑み込まれた。
「行くぞ!」
シオンが船から飛び降りる。
レオニクスも続く。
アリア、ヴォルグ、ルナリア、ノア、ルクス、リシア、ステラも一斉に都市へ駆け出した。
《終焉の海》最初の試練。
滅びた文明に眠る少女との出会いが、新たな物語の幕を開ける。




