境界航路
『引き返せ。』
『この先は。』
『生きた命が踏み入る場所ではない。』
声は海全体から響いていた。
男とも女ともつかない。
老人にも子どもにも聞こえる。
幾千もの声が重なり、一つの言葉を紡いでいる。
シオンは静かに一歩前へ出た。
「断る。」
返答は、それだけだった。
黒いローブの人物は沈黙する。
やがて、ゆっくりと首を傾けた。
『……理由を問う。』
「世界を救うためだ。」
『救済。』
『その答えは、五百十二世界連続で確認済み。』
『全て失敗。』
『再現率、一〇〇%。』
『故に。』
『お前達も失敗する。』
ルナリアが眉をひそめる。
「五百十二……?」
「世界は五百しかなかったはずじゃ……。」
ノアの表情が強張る。
「違います。」
「管理者が観測していた世界と。」
「創世された世界は一致していません。」
ルクスも静かに続けた。
「世界になる前に消えた可能性。」
「創世が失敗した世界。」
「管理者だけが観測していた実験世界。」
「全て含めれば。」
「五百を超える。」
シオンは黒いローブを見据えた。
「お前は誰だ。」
沈黙。
数秒後、その存在は静かに答えた。
『管理番号。』
『Ο―Ⅰ。』
『初代観測管理体。』
『通称。』
『境界の番人。』
アルバから聞いた名前ではない。
しかし、その存在から放たれる気配は、これまで出会った誰とも違った。
敵意がない。
殺意もない。
ただ職務だけを遂行している。
そんな存在だった。
『継承印を確認。』
番人の視線がシオンの左手へ向く。
『創世神エインの後継者。』
『確認。』
『質問。』
『なぜ管理者は裏切った。』
シオンは少しだけ目を細めた。
「知らない。」
『知らない?』
「本人から聞いた。」
「世界を好きになった。」
「それだけだ。」
番人は動かない。
何も反応しない。
やがて静かに呟いた。
『記録と一致。』
『理解不能。』
『命を愛するという概念。』
『管理対象外。』
ヴォルグが呆れたように笑う。
「だから機械は嫌いなんだ。」
「何でも数字で考えやがる。」
アリアも肩をすくめる。
「効率だけじゃ世界は回らないのよ。」
番人はその言葉にも反応しない。
『質問終了。』
『判定開始。』
その瞬間。
終焉の海全体が低く唸った。
ゴォォォォォ……
黄金の航路を囲むように、海面から無数の黒い柱がせり上がる。
一本。
十本。
百本。
柱ではない。
人だった。
黒いローブを纏った管理者が、海から次々と姿を現していく。
全員、顔がない。
全員、同じ姿。
「おいおい……。」
ヴォルグが思わず息を吐く。
「何人いるんだ。」
「数えるだけ無駄。」
アリアが短剣を構える。
「全部同じ気配。」
ノアは静かに首を振った。
「違います。」
「これは本体じゃありません。」
「観測端末です。」
「端末?」
「一人の管理者が。」
「無数の身体を使って観測している。」
レオニクスが剣を抜く。
「つまり。」
「全部倒しても意味はない。」
「はい。」
「本体は第零世界です。」
番人が黄金の航路を指差す。
『試験開始。』
『継承者シオン。』
『資格を証明せよ。』
『この航路を進みたければ。』
『一つだけ質問へ答えよ。』
空間が静まり返る。
シオンは剣を納めた。
「質問は。」
番人は一歩だけ前へ出る。
『世界が滅ぶ運命なら。』
『なぜ救う。』
『一年後に終わる命を。』
『なぜ守る。』
『効率は零。』
『意味は存在しない。』
『答えよ。』
誰も口を開かなかった。
理屈だけなら、番人の言葉は正しい。
世界は一年後に寿命を迎える。
終焉も迫っている。
救ったとしても、また終わるかもしれない。
それでも。
シオンは迷わなかった。
「意味なんて。」
「後からついてくる。」
番人は動かない。
シオンは静かに続けた。
「一年しか生きられない命でも。」
「今日笑えたなら意味がある。」
「百年生きても。」
「誰も笑えない世界なら意味はない。」
「世界っていうのは。」
「未来のためだけにあるんじゃない。」
「今を生きる誰かのためにある。」
「だから守る。」
「それだけだ。」
終焉の海から音が消えた。
番人は長い間、シオンを見つめ続ける。
やがて。
ゆっくりと黄金の航路から道を開けた。
『……回答確認。』
『管理者エイン。』
『最終回答と一致。』
『継承者認証。』
『境界航路、通行を許可する。』
ゴォォォォォ――。
黄金の航路がさらに遠くまで伸びていく。
黒い霧の向こう。
誰も見たことのない海域まで。
番人は静かに頭を下げた。
『終焉の海は。』
『これより先。』
『観測不能領域。』
『どうか。』
『世界を。』
『最後まで観測してほしい。』
その言葉を最後に、無数の管理者達は静かに海へ沈んでいく。
まるで役目を終えたように。
シオンは船へ乗り込み、仲間達を見渡した。
「出発だ。」
ルナリアが帆を張る。
レオニクスが舵を握る。
ヴォルグは船首で豪快に笑い、アリアは周囲を警戒する。
ノアとルクスは海図を広げ、ステラとリシアは静かに水平線を見つめた。
純白の《アーク》はゆっくりと黄金の航路を進み始める。
その先で待つのは、生きて帰った者が一人もいない海域――。
**《終焉の海》**だった。




