原初の虚無
世界は、呼吸を止めていた。
崩壊を続けていた世界群は、まるで誰かが時間そのものを掴んだように静止し、砕け散った星々は虚無の中で動きを失っている。
第五百世界。
新世界。
数え切れないほど存在した世界は、今や無数の欠片となり、暗黒の海を漂っていた。
その中心で。
最後の観測者シオン・アルヴィスは、一人の存在と向かい合っていた。
アビス。
世界が誕生する以前から存在し、あらゆる終焉を見届けてきた”原初の虚無”。
その姿は一定ではない。
漆黒の巨人にも見えれば、果てのない夜空にも見える。
見る者によって形を変えるその存在は、世界そのものが恐れる”終焉”という概念だった。
『……。』
言葉はない。
それでも、シオンの頭へ静かに流れ込んでくる。
孤独。
静寂。
永遠。
何も生まれず、何も終わらない時間。
その感覚を知った瞬間、シオンは思わず胸を押さえた。
「これが……。」
息が苦しい。
悲しいわけではない。
痛いわけでもない。
ただ、あまりにも何も存在しない世界を知ってしまった。
誰とも話せない。
誰にも触れられない。
笑う理由も。
泣く理由も。
存在しない。
そんな永遠を、アビスはずっと一人で見続けてきた。
エインが静かに隣へ立つ。
「感じただろう。」
シオンは小さく頷いた。
「……こんなの。」
「耐えられるわけがない。」
「だから私は世界を創ろうと思った。」
エインの視線は、どこまでも遠くを見つめていた。
「あの日。」
「私は初めて、自分以外の存在を願った。」
「誰かと話したかった。」
「誰かと笑いたかった。」
「それだけだった。」
シオンは驚いたようにエインを見る。
「世界を創った理由が、それだけ?」
「それだけだ。」
エインは迷いなく答えた。
「命は崇高な思想から生まれたわけじゃない。」
「たった一つの願いから始まった。」
『独りは寂しい。』
その願いが。
空を生み。
海を生み。
星を生み。
命を生み。
世界という奇跡を生み出した。
ネメシスが苦笑する。
「私は反対した。」
「世界が増えれば、いつか終わりも増える。」
「必ず悲しみが生まれる。」
「だから創るべきではない、と。」
「でも。」
エインは懐かしそうに笑った。
「お前は最後にこう言った。」
『それでも、お前が後悔しないなら付き合う。』
ネメシスは照れ臭そうに視線を逸らす。
「あれは失言だった。」
「いや。」
エインは首を横へ振る。
「あの一言があったから。」
「私は前へ進めた。」
二人のやり取りを見つめながら、シオンは自然と笑みを浮かべていた。
始祖とクロノスに少し似ている。
何億年も共に歩いてきた者だけが持つ空気だった。
その穏やかな時間は、不意に終わりを迎える。
アビスがゆっくりと動いた。
虚無全体が低く唸り、漆黒の空間へ幾重もの波紋が広がっていく。
『……理解。』
初めてだった。
アビスが、自ら言葉を紡いだのは。
『私は。』
『間違っていたのか。』
エインは静かに首を横へ振る。
「違う。」
「お前も必要だった。」
「終わりがなければ、始まりは意味を持たない。」
ネメシスも続ける。
「私は終焉を見届けることで世界を守った。」
「お前は終焉そのものを守り続けた。」
「誰も間違ってはいない。」
アビスは静かに目を閉じる。
虚無が少しだけ揺らぐ。
その姿は、先ほどまでの圧倒的な恐怖とは違って見えた。
まるで長い旅に疲れた旅人のようだった。
シオンは一歩だけ前へ出る。
「アビス。」
深紅の瞳がゆっくり開く。
「俺は、お前を倒しに来た。」
その言葉にエインが息を呑む。
ネメシスも静かにシオンを見る。
「でも。」
シオンは剣を抜かなかった。
「倒すっていうのは。」
「消すことじゃない。」
「お前の孤独を終わらせる。」
アビスは何も答えない。
ただ、その瞳だけがわずかに揺れた。
シオンは穏やかな声で続ける。
「始祖は命を創った。」
「ネメシスは終わりを守った。」
「エインは希望を託した。」
「だったら俺は。」
《ECLIPSE》の柄へ静かに手を添える。
「始まりと終わりを繋ぐ。」
その瞬間。
虚無のさらに奥底から、世界そのものを引き裂くような轟音が響いた。
ゴォォォォォォォォォォォォ――――。
エインの表情が変わる。
「……まずい。」
ネメシスも玉座の向こうを見つめる。
「あれはアビスじゃない。」
シオンが振り返る。
「どういうことだ。」
エインはゆっくりと首を振った。
「アビスは終焉そのものだ。」
「だが。」
「終焉を利用しようとしている”何か”がいる。」
虚無の最深部。
誰も踏み入れたことのない暗黒の果てで、一対の黄金の瞳が静かに開いた。
その視線がシオンへ向けられた瞬間、胸に刻まれた紋章が激しく脈打つ。
ドクン――。
ドクン――。
最後の戦いは、まだ始まったばかりだった。




