外界の王
「――原初の虚無、アビス。」
エインの声が虚無へ溶ける。
その名を呼ばれた瞬間、裂け目の向こう側で静止していた闇がゆっくりと脈動を始めた。
鼓動ではない。
世界そのものが恐怖を思い出したような震えだった。
アビスは姿を持たない。
輪郭も、顔も、肉体すら存在しない。
あるのは果てなく広がる漆黒だけ。
その闇を見つめた瞬間、シオンの脳裏へ無数の光景が流れ込んだ。
何も存在しない世界。
命という概念すら生まれる前の静寂。
終わりも始まりもない永遠。
「これが……。」
シオンは頭を押さえた。
「アビスの記憶……。」
エインは静かに頷く。
「違う。」
「お前が観測しているんだ。」
「存在そのものを。」
シオンは歯を食いしばる。
観測者の力が勝手に働いている。
世界ではなく、世界以前の存在を。
アビスは静かだった。
何も語らない。
だが、その沈黙だけで虚無が広がっていく。
ネメシスを拘束していた黒い鎖がさらに締め上げられた。
「ぐっ……!」
シオンは咄嗟に駆け出そうとする。
「待て!」
エインが腕を掴んだ。
「今は近付くな。」
「助けないと!」
「見ろ。」
シオンは足を止めた。
ネメシスは苦しみながらも、必死に鎖を押さえている。
いや、押さえているのは鎖ではない。
裂け目そのものだった。
「まさか……。」
エインは低く呟く。
「ネメシスは封印なんだ。」
シオンが振り返る。
「封印?」
「そうだ。」
エインは静かに語り始める。
「始祖が命を創るより遥か昔。」
「私とネメシスは一つの決断をした。」
「アビスを倒すことはできなかった。」
「だから。」
「ネメシス自身を楔にした。」
シオンは目を見開く。
ネメシスは終焉を司る神ではなかった。
原初の虚無を封じるため、自ら永遠の牢獄となった存在だった。
ネメシスは苦しそうに笑う。
「何億年……。」
「眠っていたと思う。」
「少し……疲れた。」
その笑顔はどこか始祖に似ていた。
シオンは拳を握る。
「だったら。」
「交代すればいい。」
ネメシスは首を横へ振る。
「無理だ。」
「封印は私しか維持できない。」
「そんなの認めない。」
「お前は知らない。」
ネメシスは静かにシオンを見る。
「封印とは。」
「死ぬことより孤独だ。」
その一言に、エインは目を伏せた。
誰よりも理解していた。
ネメシスは一人で、世界が始まる前から終わりまで立ち続けてきた。
誰にも知られず。
誰にも感謝されず。
ただ世界を守るためだけに。
「……ありがとう。」
シオンは自然と言葉を零していた。
ネメシスが驚いたように目を見開く。
「え?」
「今まで。」
「誰にも言われなかっただろ。」
「世界を守ってくれて。」
「ありがとう。」
静寂が虚無を包む。
ネメシスの瞳が揺れた。
その表情へ、初めて感情が浮かぶ。
悲しみでも怒りでもない。
救われた者だけが見せる、穏やかな安堵だった。
「初めて……だ。」
「そんな言葉を聞いたのは。」
ネメシスの頬を、一筋の光が流れ落ちる。
涙だった。
終焉だけを見届け続けた存在が、初めて流す涙。
その一滴が虚無へ落ちた瞬間だった。
アビスが動く。
ゴォォォォォォォォォ――――。
裂け目の奥から、巨大な黒い波が押し寄せる。
今までとは比べものにならない圧力だった。
エインは即座にシオンの前へ立つ。
「下がれ!」
「エイン!」
「これは私達の時代の戦いだ。」
エインは微笑んだ。
「だが。」
「次の一撃から先は。」
「お前の時代になる。」
シオンは息を呑む。
エインは右手を差し出した。
その掌には、一粒の蒼い光が浮かんでいる。
「覚えているか。」
「世界が生まれる前、お前へ渡した光を。」
シオンは静かに頷いた。
「あれは始まりだった。」
エインの瞳が優しく細められる。
「今度は違う。」
「これは。」
「私が最後まで残していた、創世の火種。」
蒼い光がゆっくりとシオンの胸へ吸い込まれていく。
観測者の紋章。
始原観測者の紋章。
その二つが一つへ重なり、新たな紋章が刻まれ始めた。
その瞬間、アビスの闇が初めて大きく揺らぐ。
ネメシスはその光を見つめ、小さく微笑んだ。
「ようやく……。」
「本当の希望が生まれた。」
虚無全体が激しく震える。
アビスはついに、その完全な姿を現そうとしていた。




