神なき大地
風が吹いていた。
優しく。
穏やかに。
シオンは草原の真ん中へ立っていた。
足元には柔らかな草花。
頬を撫でる暖かな風。
遠くには青々とした森が広がり、その向こうには雪を被った山々が静かに佇んでいる。
空はどこまでも青い。
雲はゆっくり流れ。
小鳥達が楽しそうに歌っていた。
「……本当に。」
シオンは小さく笑う。
「何もない世界なんだな。」
始祖は隣で空を見上げる。
「そう見えるか。」
「違うのか?」
始祖は草を一本摘み取った。
「この世界には魔力がない。」
「星晶もない。」
「管理者も存在しない。」
「終焉も存在しない。」
「神すら存在しない。」
シオンは驚く。
「神が存在しない?」
始祖は静かに頷いた。
「ここでは誰も世界を管理していない。」
「世界は生命だけの意思で動いている。」
その言葉に。
シオンは第五百世界を思い出す。
創造主。
管理者。
終焉。
黒星王。
世界核。
あまりにも多くの存在が世界を支えていた。
だが。
この世界には何もない。
それでも。
美しかった。
その時だった。
サァァァァァ……
草原が揺れる。
何かが近付いてくる。
シオンは反射的に剣へ手を添えた。
だが。
現れたのは小さな動物だった。
白い毛並み。
長い耳。
青い瞳。
ウサギにも鹿にも見える不思議な生き物。
その生き物はシオンを見つめると。
警戒することなく近付いてきた。
「おい。」
シオンは苦笑する。
「逃げなくていいのか?」
生き物は首を傾げる。
そして。
シオンの手へ頬を擦り寄せた。
暖かい。
確かな命の温もりだった。
始祖が静かに笑う。
「ここでは誰も争わない。」
「だから恐怖という概念も薄い。」
シオンはその小さな命を優しく撫でた。
「こんな世界もあるんだな。」
その瞬間。
遠くから子ども達の笑い声が聞こえた。
「……?」
シオンは立ち上がる。
草原の向こう。
小さな丘の上に、一つの村があった。
木造の家々。
風車。
畑。
煙突から立ち昇る煙。
ごく普通の村。
そこでは子ども達が走り回り、大人達が畑を耕し、老人達が穏やかに談笑していた。
戦う者はいない。
武器を持つ者もいない。
シオンは呆然と立ち尽くす。
「信じられない……。」
始祖もその村を見つめる。
「この世界では。」
「千年以上。」
「争いが起きていない。」
静寂。
シオンは言葉を失う。
そんな世界が本当に存在するのか。
その時だった。
一人の少女がこちらへ走ってくる。
年は十歳ほど。
栗色の髪。
透き通るような蒼い瞳。
彼女はシオン達の前で立ち止まると、にこりと笑った。
「こんにちは!」
屈託のない笑顔だった。
「旅人さん?」
シオンは少し戸惑いながら頷く。
「ああ。」
少女は嬉しそうに手を叩いた。
「やっぱり!」
「おじいちゃんが言ってたの!」
「今日は空から旅人が来るって!」
始祖は微笑む。
「相変わらず勘が鋭いな。」
少女は始祖を見る。
そして。
少しだけ不思議そうな顔をした。
「あなた……。」
「どこかで会ったことある?」
始祖は驚いたように目を見開く。
「私を知っているのか?」
少女は首を傾げる。
「分かんない。」
「でも。」
「とても懐かしい。」
その言葉に。
始祖の表情が僅かに揺れた。
何億年もの時を生きた創世神が。
初めて感情を隠せなくなった瞬間だった。
「……そうか。」
優しく微笑む始祖。
少女は何も知らない。
目の前にいる人物こそ、この世界を創った存在だということを。
シオンはその光景を静かに見つめていた。
その時だった。
ドクン――。
観測者の紋章が脈打つ。
穏やかな村。
優しい風。
平和な世界。
そのすべての奥から。
微かに黒い気配を感じる。
ほんの一瞬。
村の最奥に建つ古い時計塔。
その屋根の上で。
黒い外套を纏った人影がこちらを見下ろしていた。
赤い瞳。
静かな笑み。
クロノスだった。
シオンが目を凝らした瞬間。
その姿は風の中へ溶けるように消えていく。
「……何だった。」
始祖も時計塔を見つめる。
黄金の瞳が細められる。
「始まったな。」
静かな一言だった。
シオンは振り返る。
「何が。」
始祖はゆっくり空を見上げる。
青空の向こう。
誰にも見えない場所を見つめながら。
「この世界にも。」
「運命が動き始めた。」
穏やかな風が止まる。
鳥達が一斉に空へ飛び立つ。
新世界の静寂は。
少しずつ終わりを迎えようとしていた。




