最後の観測者
第一世界が、悲鳴を上げていた。
蒼黒い光。
赤黒い闇。
二つの力が激突するたび、世界そのものが激しく軋む。
空は裂け。
大地は砕け。
滅びたはずの第一世界が、再び終焉へ飲み込まれようとしていた。
その中心で。
二人の観測者は静かに向かい合っていた。
シオン・アルヴィス。
黒星王。
最後の観測者。
未来を信じ続ける者。
そして――。
虚無の観測者。
最初の観測者。
未来を諦めた者。
互いに傷つき。
互いに満身創痍だった。
それでも。
どちらも剣を下ろさない。
下ろせなかった。
これは力の優劣を決める戦いではない。
信念と信念。
希望と絶望。
二つの生き方に答えを出す戦いだった。
静寂の中、虚無の観測者がゆっくりと口を開く。
「……なぜだ。」
低く、かすれた声。
数万年という歳月の重みが滲んでいた。
「なぜ、お前は諦めない。」
赤黒い瞳には、怒りも憎しみもない。
そこに宿っていたのは、果てしない疲労だけだった。
数え切れない滅亡。
数え切れない別れ。
数え切れない絶望。
そのすべてを見届け続けた者だけが持つ瞳。
男は続ける。
「何度世界が滅んでも。」
「何度仲間を失っても。」
「何度裏切られても。」
静かな問いが響く。
「……なぜ、立ち上がれる。」
責める声ではない。
羨望でもない。
ただ純粋に知りたかった。
自分が失ってしまった、その答えを。
シオンはゆっくりと目を閉じた。
脳裏へ浮かぶ。
ルナリア。
アリア。
レオニクス。
エリナ。
ガルド。
そして、共に歩いてきた仲間たち。
笑い合った日々。
交わした約束。
守りたい未来。
帰るべき場所。
三年間。
世界中から忘れ去られても。
存在そのものを消されても。
待ち続けてくれた人たちがいた。
信じ続けてくれた人たちがいた。
その記憶が、胸の奥から静かに温もりを灯していく。
シオンはゆっくりと目を開いた。
蒼い瞳が、真っ直ぐ虚無の観測者を見据える。
「……一人じゃないからだ。」
その一言で。
世界が静まり返った。
虚無の観測者は何も言わない。
ただ、静かに耳を傾ける。
シオンは少しだけ笑った。
「俺は強くない。」
照れ隠しのような笑みだった。
「何回も負けた。」
「何回も泣いた。」
「何回も逃げたくなった。」
英雄ではない。
最強でもない。
ただ、どこにでもいる一人の少年。
だからこそ。
その言葉には嘘がなかった。
「でも。」
シオンは胸へ手を当てる。
「その度に、誰かが支えてくれた。」
ルナリアの涙。
アリアの叱咤。
レオニクスの背中。
仲間たちの笑顔。
誰かの手があった。
誰かの声があった。
だから、立ち上がれた。
「だから俺は、ここまで来られた。」
黒星晶が鼓動する。
蒼黒い輝きが静かに世界へ広がっていく。
その光に呼応するように。
第一世界が共鳴した。
無数の世界が脈打つ。
未来を信じ続けた人々の願い。
最後まで諦めなかった魂。
そのすべてが、黒星晶へと集まっていく。
虚無の観測者は静かに空を見上げた。
遥か遠い過去を思い返すように。
そして、小さく呟く。
「……そうか。」
その声は、とても穏やかだった。
「私は……忘れていたんだな。」
第一世界の記憶が浮かび上がる。
共に戦った仲間たち。
笑い合った日々。
未来を語り合った夜。
守りたかった世界。
失ったものばかりを見続けていた。
だから気づけなかった。
自分もまた。
誰かに支えられながら歩いてきたことを。
男は小さく苦笑した。
「本当に……。」
赤黒い瞳が細められる。
「最後まで敵わないな。」
その瞬間だった。
ゴゴゴゴゴ……。
第一世界全体が大きく震える。
空を覆う巨大な亀裂が、さらに深く裂けていく。
その奥。
深淵のさらに向こう側。
巨大な”何か”が、ゆっくりと目を開いた。
白銀の観測者の表情が一変する。
「まずい!」
シオンも反射的に振り返る。
虚無の観測者も、すでにその存在を見据えていた。
世界の奥。
観測のさらに奥。
すべての元凶。
すべての始まり。
第一世界を滅ぼした、本当の存在。
今まで空に浮かんでいた巨大な瞳。
あれは、ほんの一部に過ぎなかった。
そのさらに奥。
闇そのものが蠢いていた。
世界より巨大な漆黒。
無数の瞳。
無数の翼。
無数の世界を呑み込み続けてきた存在。
それが、ゆっくりと覚醒する。
第一世界が悲鳴を上げた。
世界の記録庫が崩壊を始める。
白銀の観測者が叫ぶ。
「封印が完全に破られる!」
シオンは剣を握り直す。
駆け出そうとした、その瞬間。
虚無の観測者が一歩前へ出た。
「ここから先は……私の役目だ。」
シオンが息を呑む。
男は振り返る。
そして。
初めて、本当の意味で笑った。
虚無ではない。
絶望でもない。
かつて人々が信頼した、一人の観測者の笑顔だった。
「未来を諦めた責任くらい……取らせろ。」
赤黒い光が溢れ出す。
第一世界全体を包み込み。
封印の中心へ流れ込んでいく。
男は静かにシオンを見つめた。
「行け。」
世界が震える。
崩壊は止まらない。
それでも、その声だけははっきりと届いた。
「最後の観測者。」
赤黒い瞳には、もう絶望はなかった。
宿っていたのは。
数万年ぶりに取り戻した、確かな希望だった。
男は穏やかに微笑む。
「今度こそ。」
その笑顔は、どこかシオンによく似ていた。
「未来を守れ。」
その瞬間。
虚無の観測者は迷うことなく、封印の中心へ飛び込んだ。
赤黒い光が爆発する。
轟音とともに世界が白く染まり、すべての景色が光へ飲み込まれていく。
「待て!」
シオンは思わず手を伸ばす。
届かない。
あと少しだった。
それでも。
光へ消えていく男は、最後まで笑っていた。
第一世界、最初の観測者。
世界を救えなかった男。
未来を諦めてしまった男。
それでも最後の最後に。
もう一度だけ、未来を信じた英雄。
その姿は静かに光へ溶けていった。
世界が崩れる。
記録庫が閉じる。
シオンの意識が現実へ引き戻されていく。
遠ざかる光の中で。
最後に一つだけ。
男の声が響いた。
『頼んだぞ。』
その言葉とともに。
シオンの意識は、王都セレスティアへと帰還する。
――第一世界編。
ここに、幕を開けた。




