封印された観測者
世界の記録庫は、異様な静寂に包まれていた。
誰も動かない。
いや、動けなかった。
白銀の観測者も。
シオンも。
ただ、封印の最深部から姿を現した一人の男を見つめている。
黒髪。
赤黒い瞳。
そして――。
シオンと酷似した顔立ち。
まるで鏡に映った自分を見ているかのようだった。
違うのは、その瞳だけ。
シオンの蒼い瞳とは対照的に、男の瞳は底知れぬ深淵を湛えている。
光を映さない。
希望を映さない。
数え切れない終焉だけを見続けてきた者の瞳。
その存在が立っているだけで、空間そのものが歪み始める。
中央で輝いていた第一世界さえ、微かに震えていた。
まるで、この男を恐れているかのように。
男は静かに口を開く。
「……久しぶりだな。」
穏やかな声音だった。
敵意はない。
怒りもない。
だからこそ、不気味だった。
その静けさは、嵐よりも恐ろしい。
シオンは剣を構えたまま問い掛ける。
「お前は……誰だ。」
男はわずかに口元を緩める。
「忘れたのか。」
「知らないから聞いてる。」
短く返すと、男はどこか寂しげに目を細めた。
「……そうか。」
その表情を見た瞬間。
シオンの胸が締め付けられる。
初めて会ったはずだった。
記憶にあるはずがない。
それなのに。
懐かしい。
ずっと昔に別れた誰かと再会したような。
そんな説明のつかない感覚が胸の奥で疼いていた。
その空気を断ち切るように、白銀の観測者が一歩前へ出る。
蒼銀色の剣を静かに構えた。
「……名前を口にするな。」
低く抑えられた声。
だが、その奥には激しい怒りが宿っていた。
男は小さく笑う。
「相変わらずだな。」
「黙れ。」
「まだ私を憎んでいるのか。」
「当然だ。」
その瞬間。
白銀の観測者の魔力が一気に膨れ上がる。
蒼銀色の輝きが世界の記録庫を満たし、周囲に浮かぶ無数の世界が激しく揺れた。
シオンは目を見開く。
白銀の観測者が、ここまで感情を露わにする姿を見たことがない。
それは怒りだった。
何万年という時を経ても消えなかった、深く重い怒り。
男は静かに息を吐く。
「数万年経っても変わらないな。」
「その話をする資格は、お前にはない。」
「……そうかもしれない。」
二人の会話を聞きながら、シオンは眉をひそめる。
知り合い。
そんな生易しい関係ではない。
もっと深い。
もっと古い。
世界の始まりまで遡るほどの因縁が、その言葉の端々から伝わってくる。
シオンは男を見据えた。
「説明しろ。」
静かな声だった。
「お前は誰なんだ。」
男はゆっくりとシオンへ視線を向ける。
赤黒い瞳が真っ直ぐに映し出した。
「私は観測者だ。」
その一言が静かに響く。
「……お前と同じ観測者。」
シオンは眉をひそめる。
「そんなことは聞いていない。」
男は苦く笑った。
「そうだな。」
そして、その瞬間だった。
世界の空気が変わる。
第一世界の光が大きく揺れる。
封印が軋み、悲鳴のような音を響かせた。
男の背後から、巨大な黒い翼が広がる。
世界を覆い尽くすほど巨大な翼。
翼が開くたび、空間へ無数の亀裂が走る。
記録庫全体が激しく震動した。
男は静かに告げる。
「私は――最初の失敗作だ。」
その言葉に。
シオンも。
白銀の観測者も。
思わず息を呑んだ。
男は遠い空を見上げる。
数万年前の記憶を辿るように。
「第一世界は滅んだ。」
「人々は未来を望んだ。」
「だから、観測者が生まれた。」
静かな声が、記録庫へ響き渡る。
「だが。」
「最初の観測者は、失敗した。」
シオンの胸がざわめく。
忘れていた何かが、記憶の底から浮かび上がろうとしていた。
男は続ける。
「未来を守ろうとした。」
「世界を救おうとした。」
「誰一人失いたくなかった。」
赤黒い瞳が、ほんの一瞬だけ揺れる。
そこには確かに悲しみがあった。
「だから私は……間違えた。」
第一世界の光が暗く染まる。
その中へ一つの映像が浮かび上がる。
崩壊する都市。
燃え落ちる文明。
絶望の中で泣き叫ぶ人々。
そして。
その中心に立つ、一人の青年。
黒髪。
赤黒い瞳。
目の前に立つ男、そのものだった。
青年は静かに呟く。
「私は未来を諦めた。」
重い沈黙が落ちる。
誰も言葉を発せない。
男はゆっくりとシオンを見つめた。
逃げることなく。
偽ることなく。
そして、その真実を告げる。
「……それが、虚無の観測者だ。」
シオンの瞳が大きく見開かれる。
世界から音が消えた。
白銀の観測者は何も言わない。
否定もしない。
つまり――。
それが真実だった。
第一世界を滅ぼした災厄。
虚無の観測者。
その正体は。
最初の観測者だった。
「……馬鹿な。」
シオンの声が震える。
男は笑わない。
静かな眼差しのまま続ける。
「未来を諦めた観測者は、虚無になる。」
その言葉は冷たく響いた。
「未来を信じ続けた観測者は、黒星王になる。」
シオンの胸へ、その言葉が深く突き刺さる。
理解してしまった。
自分と、この男は紙一重なのだ。
絶望を選べば、虚無。
希望を選び続ければ、黒星王。
分かつものは、たった一つの選択。
その時だった。
ドクン――。
黒星晶が激しく脈打つ。
第一世界の空に亀裂が走る。
封印が音を立てて崩れ始めた。
男はゆっくりと立ち上がる。
赤黒い瞳が静かに輝く。
「だから、確かめに来た。」
次の瞬間。
圧倒的な魔力が解き放たれた。
世界の記録庫全体が悲鳴を上げる。
無数の世界が震え。
第一世界の光さえ揺らぐ。
男は静かにシオンを見据えた。
その視線は、試すように。
あるいは、かつての自分を見るように。
ゆっくりと問い掛ける。
「お前は、どちらになる。」
黒星王か。
それとも――。
虚無の観測者か。
数万年の時を超えた問いが。
今、静かにシオンへ突き付けられていた。




