再び世界へ
蒼黒い光が、夜空を覆っていた。
世界を支配していた巨大な白い法陣は無数の亀裂に覆われ、終末機構は悲鳴を上げるように崩壊を始めている。
《エンド・リライト》。
絶対だった世界終了命令は、その機能を少しずつ失い始めていた。
その中心に立つ、一人の少年。
シオン・アルヴィス。
忘れられた英雄。
黒星王。
そして――最後の観測者として世界に選ばれた存在。
その姿は、蒼黒い光の中で静かに王都を見下ろしていた。
⸻
王都中央広場。
集まった人々は、ただ息を呑んでいた。
誰も動けない。
誰も目を逸らせない。
砕けた法陣の向こうに立つ黒衣の少年から、視線を外すことができなかった。
知らない。
知らないはずなのに。
胸が締め付けられる。
懐かしい。
会いたかった。
守られていた。
忘れていた何かが、胸の奥で確かに目を覚ましていく。
言葉にならない感情だけが、人々の心を満たしていた。
⸻
「……シオン。」
誰かが、小さく呟く。
その声は風に溶けて消えてしまいそうなほど弱かった。
けれど。
その一言は終わらなかった。
「シオン……。」
「シオン・アルヴィス……。」
「黒星王……。」
誰かが口にするたび、その名前は波紋のように広がっていく。
忘れていたはずの名前。
消されていたはずの記録。
世界そのものが、少しずつ思い出し始めていた。
本当の英雄の存在を。
⸻
その頃。
記憶の海。
ルナリアの身体を、蒼銀色の光が優しく包み込む。
ドクン――。
胸が大きく脈打つ。
今まで感じたことのないほど鮮明な鼓動。
シオンの存在。
もう迷わない。
もう間違えない。
こんなにも近く感じたことはなかった。
「……帰ってきた。」
震える声とともに、涙が頬を伝う。
その涙は悲しみではない。
待ち続けた者だけが流せる涙だった。
クロノは静かに微笑む。
「……やっとだな。」
ルナリアは何も言わず頷いた。
何度夢を見ただろう。
何度名前を呼んだだろう。
何度諦めそうになっただろう。
それでも。
信じ続けてよかった。
待ち続けてよかった。
その想いが胸いっぱいに溢れていた。
⸻
次の瞬間。
記憶の海全体が眩く輝く。
世界と世界を隔てる境界が大きく揺らぎ始める。
蒼銀色の光が一本の柱となって夜空へ伸びていく。
まるで誰かに導かれるように。
ルナリアは迷うことなく一歩を踏み出した。
クロノが振り返る。
「……行くのか。」
ルナリアは真っ直ぐ前だけを見る。
「うん。」
蒼銀色の瞳には、もう迷いはない。
「今度は……私が会いに行く。」
その一歩には、三年間積み重ねてきた想いのすべてが込められていた。
⸻
その頃。
王都上空では混乱が広がっていた。
管理者たちの演算が次々と乱れていく。
『異常発生』
『黒星王帰還確認』
『記録復元率上昇』
『世界終了命令停止率増加』
『原因解析不能』
理解できない。
演算できない。
管理者にとって、それはあり得ない事態だった。
世界は消滅するはずだった。
記録は完全に削除されるはずだった。
それなのに。
人々は思い出している。
忘却へ抗っている。
そして。
本来存在しないはずの少年が、再び世界へ帰還した。
⸻
『排除を開始する。』
その命令と同時に。
無数の白い扉が夜空に開いた。
AE軍団。
再編集執行官。
世界編集兵。
数百。
数千。
果ての見えない白い軍勢が空を埋め尽くしていく。
そのすべての視線が、一人の少年へ向けられた。
シオン・アルヴィス。
世界最大の修正対象。
⸻
広場から悲鳴が上がる。
王国兵たちは咄嗟に剣を抜く。
しかし。
恐怖よりも先に身体が動いていた。
「守れ!!」
誰かが叫ぶ。
「英雄を守れ!!」
その声に続くように、無数の兵士たちが前へ踏み出した。
その言葉を聞いた瞬間。
シオンは静かに目を見開く。
英雄。
自分はそんな立派な存在ではない。
何度も負けた。
何度も迷った。
何度も諦めそうになった。
それでも。
この世界の人々は、自分をそう呼んでくれる。
シオンは小さく笑った。
「……相変わらずだな。」
懐かしかった。
守りたかった世界。
帰りたかった場所。
失いたくなかった日常。
そのすべてが、ここにある。
⸻
その瞬間。
夜空が白く染まる。
無数の槍。
数千。
数万。
天を覆い尽くす純白の槍が、一斉に王都へ降り注ぐ。
誰もが思った。
王都は終わる。
そう確信した。
しかし。
シオンは静かに一歩前へ出る。
蒼い瞳が鋭く輝く。
胸の奥で黒星晶が大きく脈打つ。
ゆっくりと剣を抜いた。
⸻
ドォォォォォォォォォォォォォン――!!
蒼黒い斬撃が夜空を切り裂く。
一閃。
それだけだった。
次の瞬間。
純白の槍は跡形もなく消滅する。
AE軍団が吹き飛ぶ。
空間そのものが悲鳴を上げる。
衝撃波が王都全域を駆け抜け、人々は思わず息を呑んだ。
⸻
しかし。
シオンの表情がわずかに歪む。
「……っ。」
膝が揺れる。
呼吸が乱れる。
身体が思うように動かない。
まだ完全ではない。
最後の観測者としての継承は終わっていない。
黒星王の力も不安定なまま。
さらに、世界へ帰還した反動が全身を蝕んでいた。
⸻
その様子を見逃す管理者ではなかった。
『出力低下確認。』
『黒星王、未完成状態。』
『排除を最優先対象へ変更。』
無数の法陣が夜空いっぱいに展開される。
王都が再び震え始める。
空は純白の光に覆われていく。
シオンは静かに剣を構え直した。
まだ戦える。
そう自分に言い聞かせるように。
その時だった。
王都の彼方。
夜空の地平線から、一筋の蒼銀色の光が駆け抜ける。
月光そのものが翼を得たかのような、美しく温かな光。
一直線に。
迷うことなく。
王都へ向かって飛来する。
⸻
シオンの蒼い瞳が揺れた。
その光を知っている。
誰よりも。
何よりも。
忘れるはずがない。
思わず、その名が零れる。
「……ルナリア?」
蒼銀色の流星は夜空を切り裂きながら、まっすぐ王都へ近付いてくる。
三年間。
互いを想い続けた二人。
その再会は、もう目の前まで迫っていた。




