世界が忘れた名前
王都セレスティア。
深い夜の空を、一筋の蒼黒い流星が静かに横切っていた。
その光に気付いた人々は、まるで示し合わせたかのように足を止める。
商人も。
兵士も。
家路を急ぐ親子も。
誰もが自然と空を見上げていた。
理由は分からない。
けれど胸の奥が締め付けられる。
言葉にならない懐かしさが込み上げ、目頭が熱くなる。
まるで。
ずっと会いたかった誰かが、ようやく帰ってきてくれたような感覚だった。
誰もその正体を知らない。
それでも、その光から目を離すことができなかった。
⸻
王立図書館。
禁書保管庫。
昼間から続いていた異変は、さらに大きく広がっていた。
固く閉ざされていた書物が、ひとりでに開いていく。
白紙だったはずのページへ、新たな文字が浮かび上がる。
封印されていた古文書は淡い光を放ち、静かな書庫を幻想的な輝きで満たしていた。
若い司書たちは困惑した表情で本を見つめる。
「また増えてる……。」
一人が震える声で呟く。
別の司書も信じられないというようにページをめくった。
「昨日まで、こんな記録はなかったぞ……。」
「誰が書き加えたんだ?」
誰にも分からない。
誰一人として答えられない。
だが、どの本にも共通して記されている名前があった。
『シオン・アルヴィス』
その名前を目にするたび、胸の奥が締め付けられる。
懐かしい。
大切だった。
決して忘れてはいけない存在だった。
理由は思い出せない。
それでも、その感情だけは消えずに残っている。
年老いた司書長は震える指先で、その文字をゆっくりとなぞった。
「この名前を……私は知っている。」
掠れた声だった。
「確かに知っているんだ……。」
だが、その先が思い出せない。
あと少し。
ほんのあと少しなのに。
頭の奥へ深い霧がかかったように、記憶だけが届かなかった。
司書長は苦しそうに額を押さえ、小さく目を閉じる。
「もう少しで……思い出せそうなのに……。」
⸻
同じ頃。
世界樹都市アストレア。
巨大な世界樹の根元。
王国が厳重に保管する古代石碑の前では、研究員たちが騒然となっていた。
何千年もの間、一度も変化したことのない石碑。
その表面へ、新たな文字がゆっくりと刻まれ始めていたのだ。
「石碑が勝手に……!」
「あり得ない!」
「誰も触れていないぞ!」
誰も近付いていない。
魔法でもない。
刻印でもない。
それでも石碑は、自ら歴史を書き始めていた。
現れた文字は、一行、また一行と増えていく。
失われた英雄。
終末戦争。
黒星王。
そして。
シオン・アルヴィス。
誰も知らないはずの名前。
それなのに。
研究員たちの頬を涙が伝っていた。
理由も分からない。
なぜ泣いているのか、自分でも理解できない。
それでも、その名を見つめるだけで胸が苦しくなる。
「……誰なんだ。」
一人の研究員が呟く。
「どうして、こんなに悲しいんだ……。」
⸻
海上国家マリネス。
北方氷原。
砂漠都市ザルディア。
世界各地で、同じ現象が起きていた。
見知らぬ夢を見る者。
理由もなく涙を流す者。
眠りの中で、知らないはずの名前を何度も呼ぶ者。
「シオン……。」
「待って……。」
「帰ってきて……。」
誰も意味を知らない。
それでも、その名前だけは自然と口から零れていた。
世界から消された記録は、少しずつ本来あるべき場所へ戻り始めている。
世界そのものが抵抗していた。
管理者による忘却へ。
書き換えられた歴史へ。
人々の想いが、静かに反抗を始めていた。
⸻
記憶の海。
ルナリアは静かに立っていた。
身体を包む蒼銀色の光は、先ほどよりも一層強く輝いている。
《メモリア・ルナ》
完全に覚醒した記憶継承能力。
その力によって、世界中で失われた記憶が彼女の中へ流れ込んでいた。
クロノが隣へ歩み寄る。
「見えるか?」
ルナリアは静かに頷く。
「……うん。」
見えていた。
世界中で起きている変化が。
忘れ去られた記録が戻っていく光景が。
封印されていた歴史が蘇る瞬間が。
そして、そのすべての中心には必ず一人の少年がいた。
シオン・アルヴィス。
「みんな……思い出してる。」
震える声だった。
涙が静かに頬を伝う。
三年間。
誰も彼を覚えていなかった。
誰も存在を知らなかった。
歴史から消された英雄。
それでも今は違う。
少しずつ。
本当に少しずつ。
世界は彼の名前を取り戻し始めていた。
クロノも流星を見上げる。
蒼黒い光は、もうすぐ王都へ届こうとしている。
「管理者は焦ってるだろうな。」
苦笑混じりに呟く。
ルナリアは静かに尋ねた。
「……消せないんだね。」
クロノは力強く頷く。
「ああ。」
静かな声だった。
「一度、本当に刻まれた記憶は消えない。」
「どれだけ歴史を書き換えても。」
「どれだけ記録を封印しても。」
「人の想いだけは、必ず残る。」
ルナリアは流星を見つめた。
シオン。
忘れられても。
消されても。
それでも帰ろうとしている。
だから今度は。
自分が手を伸ばく。
絶対に離さない。
もう二度と、一人にはさせない。
⸻
その頃。
管理者神殿では異変が加速していた。
無限に続く白い書架が次々と崩れ始める。
世界中から戻り始めた記録。
蘇る歴史。
増殖し続ける「シオン・アルヴィス」という存在の情報。
管理者アーカイヴの演算速度は、すでに限界を超えていた。
『記録復元率上昇』
『黒星王因子拡散』
『危険度更新』
『危険度更新』
銀色の瞳が激しく明滅する。
そして。
初めて。
アーカイヴの表情がわずかに歪んだ。
怒りにも似た表情。
だが、それは違う。
恐怖だった。
『何故だ。』
誰へ向けた問いでもない。
『何故……消えない。』
管理者には理解できなかった。
想いというものを。
記憶というものを。
誰かを忘れたくないと願う、人の心を。
その時だった。
神殿の奥。
『最初の世界』の書を抱いた少女が、静かに微笑む。
「だから、人間は面白いんだよ。」
アーカイヴがゆっくり振り返る。
少女の蒼い瞳は、どこまでも穏やかだった。
そして。
静かな声で、管理者ですら知らない真実を告げる。
「シオンは、ただの黒星王じゃない。」
世界が震えた。
少女は蒼黒い流星を見上げる。
懐かしそうに。
愛おしそうに。
そして、確信に満ちた声で告げた。
「彼は――最後の観測者だから。」
その瞬間。
遥か深淵領域。
巨大な蒼い瞳が、ゆっくりと大きく見開かれた。




